みちのくの山野草

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『春と修羅 第三集』昭和2年分より(中編)

2018-06-24 10:00:00 | 「賢治研究」の更なる発展のために
 それにしても、私もかつては大好きだったし、一般的にも評価の高いはずのあの3作品〈〔あすこの田はねえ〕〉〈野の師父〉〈和風は河谷いっぱいに吹く〉がなぜ「10番稿」に入ったのであろうか、ということを今回は推考してみたいのだが、そのために前もって確認しておきたいことが次のことである。

 ㈣ 誤認「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」
 …(投稿者略)…
 不思議なことに、「昭和2年の賢治と稲作」に関しての論考等において、多くの賢治研究家等がその典拠等も明示せずに次のようなことを断定的な表現を用いてそれぞれ、
(a) その上、これもまた賢治が全く予期しなかったその年(昭和2年:筆者註)の冷夏が、東北地方に大きな被害を与えた。〈『宮沢賢治 その独自性と時代性』(西田良子著、翰林書房)152p〉
 私たちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏と一九二八年の四〇日の旱魃で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。〈同、173p〉
(b) 昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨を目の当たりにした賢治は、草花のことなど忘れたかのように水田の肥料設計を指導するため農村巡りを始める。〈『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)79p〉
(c) 一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。 〈『 宮沢賢治 第6号』(洋々社、1986年)78p〉
(d) (昭和2年の)五月から肥料設計・稲作指導。夏は天候不順のため東奔西走する。 〈『新編銀河鉄道の夜』(宮沢賢治著、新潮文庫)所収の年譜〉
(e) (昭和2年は)田植えの頃から、天候不順の夏にかけて、稲作指導や肥料設計は多忙をきわめた。〈『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』(新潮社)77p〉
(f) 一九二六年春、あれほど大きな意気込みで始めた農村改革運動であったが…(筆者略)…
 中でも、一九二七・八年と続いた、天候不順による大きな稲の被害は、精神的にも経済的にも更にまた肉体的にも、彼を打ちのめした。〈『宮澤賢治論』(西田良子著、桜楓社)89p〉
(g) 昭和二年(1927年)は未曽(ママ)有の凶作に見舞われた。詩「ダリア品評会席上」には「西暦一千九百二十七年に於る/当イーハトーボ地方の夏は…(筆者略)…」とある。〈帝京平成大学石井竹夫准教授の論文〉
というような事を述べいる。つまり、「昭和二年は、多雨冷温の天候不順の夏だった」とか「未曾有の凶作だった」という断定にしばしば遭遇する。
 ところが、いわゆる『阿部晁の家政日誌』(巻末「資料一「羅須地人協会時代」の花巻の天候(稲作期間)」参照)によって当時の花巻の天気や気温を知ることができることに気付いた私は、そこに記載されている天候に基づけばこれらの断定〝(a)~(g)〟はおかしいと直感した。さりながら、このような断定に限ってその典拠を明らかにしていない。それゆえ、私はその「典拠」を推測するしかないのだが、『新校本年譜』には、
(昭和2年)七月一九日(火) 盛岡測候所福井規矩三へ礼状を出す(書簡231)。福井規矩三の「測候所と宮沢君」によると、次のようである。
「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」
となっているし、確かに福井は「測候所と宮澤君」において、
 昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて來られていろいろと話しまた調べて歸られた。〈『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)317p〉
と述べているから、これか、この引例が「典拠」と推測されるし、かつ「典拠」と言えるはず。それは、私が調べた限り、これ以外に前掲の「断定」の拠り所になるようなものは他に何一つ見当たらないからだ。しかも、福井は当時盛岡測候所長だったから、この、いわば証言を皆端から信じ切ってしまったのだろう。
 しかし残念ながら、先の『阿部晁の家政日誌』に記載されている花巻の天候みならず、それこそ福井自身が発行した『岩手県気象年報(〈註五〉)』(岩手県盛岡・宮古測候所)や『岩手日報』の県米実収高の記事(〈註六〉)、そして「昭和2年稻作期間豊凶氣溫(〈註七〉)」(盛岡測候所発表、昭和2年9月7日付『岩手日報』掲載)等によって、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」という事実は全くなかったということを容易に知ることができる。つまり、同測候所長のこの証言は事実誤認だったのだ。
             〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版)65p~〉

 一方、以前〝7月に詠んだ詩〔あすこの田はねえ〕〟において投稿したように、例えば天沢退二郎氏は、
 「〔あすこの田はねえ〕」「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」の三篇は、農民への献身者としての生き甲斐や喜びが明るくうたいあげられているようにも見える。
             <『新編宮沢賢治詩集』(天沢退二郎編、新潮文庫)414pより>
と評しているし、中村稔は、
 かれの「春と修羅」第一集から第四集にいたる作品の中で、もっともみごとな結実を示しているのは、「無声慟哭」の一連の挽歌であり、「和風は河谷いっぱいに吹く」を頂点とする作品群であろうと思われる。
             <『宮沢賢治』(中村稔著、筑摩叢書)12p~より>
と、「「和風は河谷いっぱいに吹く」を頂点とする作品群」も「もっともみごとな結実を示している」と極めて高く評価している。

 しかし、これもかつて〝「和風は河谷いっぱいに吹く」は虚構〟で論じたように、下書稿とも言える〔南からまた西南から〕には虚構はないが、その定稿と言える「和風は河谷いっぱいに吹く」には虚構があると言えそうだ。
 これに対して、前掲の(a)~(g)からも明らかなように、多くの研究家は福井規矩三が「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」と述べていたことなどもあってか、あまり異論を差し挟んでこなかった。それは、福井の証言と賢治のこの詩の内容とが矛盾しなかったから「和風は河谷いっぱいに吹く」に詠まれている気象条件は事実であったと思われてきた節がある。
 ところが、この福井の証言は事実誤認であり、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」という事実はなく、「和風は河谷いっぱいに吹く」には虚構があったいう蓋然性が極めて高いのである。つまり、自然現象についての事実を賢治は書き換えていたと言えるので、この虚構によってこの詩は完成度がより高まったかもしれないが、私からすればかつてのような感動をこの「和風は河谷いっぱいに吹く」からは得られなくなった。なんとなれば、私がかつていたく感動したのはそれが事実だと思ったからであり、それが虚構であると知ってしまったならばそのような感動は二度と得られないということを知ったからである。
 そして、以上のことを知った私は、だからこそ賢治は「心こゝになき手記なり」として後に封印したのだとすんなりと納得できた。

 また、〝『春と修羅 第三集』の感動と虚構そして嘘〟で論じてみたように、〔あすこの田はねえ〕については反収についての推敲を調べてみると、賢治はそ石高をいじっていて、その反収は信頼性が危うい。この場合には気象に関するような虚構ではないが、その「危うさ」がある詩だということを知ってしまうと、前述の場合と同様にかつてのような感動をこの詩からは得られなくなってしまった。言い換えれば、このような「危うさ」はあまり後味のよいものではないので、賢治も後にこの詩を封印したのだとすんなりと納得できた。

 そして「野の師父」についも、以前〝8月に詠んだ詩〈野の師父〉〟で述べたように、例えば「四日つゞいた烈しい雨」はどうも事実とは言い難く、この詩もまた虚構の含まれている詩であり、ここに詠まれていることを検証もせずにそのまま賢治の実生活等に還元はできない。だから賢治はその虚構を気にし(おそらく、それは一個のサイエンティストとしての良心ゆえに)てこの詩も後に封印したのだと私は納得できた。

 そしてそもそも、これらの詩に関しては既に天沢太二郎氏が、
 しかし「野の師父」はさらなる改稿を受けるにつれて、茫然とした空虚な表情へとうつろいを見せ、「和風は……」の下書稿はまだ七月の、台風襲来以前の段階で発想されており、最終形と同日付の「〔もはたらくな〕」は、ごらんの通り、失意の暗い怒りの詩である。これら、一見リアルな、生活体験に発想したと見られる詩篇もまた、単純な実生活還元をゆるさない、屹立した〝心象スケッチ〟であることがわかる。
               <『新編宮沢賢治詩集』(天沢退二郎編、新潮文庫)414pより>
と指摘しているところであり、私が先に述べたことは案外荒唐無稽なことではなかろう。

 簡潔に言えば、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」は事実誤認であり、延いては、賢治の3作品〈〔あすこの田はねえ〕〉〈野の師父〉〈和風は河谷いっぱいに吹く〉は、天沢氏の言を借りれば「屹立した〝心象スケッチ〟」である。つまり、そのまま還元などはできないということであり、そのままでは考察の際の客観的な典拠たり得ない。
 言い換えれば、天沢氏が「「〔あすこの田はねえ〕」「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」の3篇は、農民への献身者としての生き甲斐や喜びが明るくうたいあげられているようにも見える」と述べているように、そのように「見える」だけであり、実際に賢治が「農民への献身者」であったことをこれら3篇の詩によって導き出すことはできない。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、宮沢賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

〈鈴木守著、ツーワンライフ出版、定価(本体価格1,500円+税)〉
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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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