かねがね、賢治の「羅須地人協会」と武者小路実篤の「新しき村」との間には通底しているものがあると直感していたので、今回初めて調布の「武者小路実篤記念館」を訪ねてみた。つつじヶ丘駅から、スマホに案内されてなんとかたどり着いた。
《1 》(平成31年12月8日撮影)
《2 》(平成31年12月8日撮影)
《3 》(平成31年12月8日撮影)
すると、記念館の前の住宅には沢山の花が咲いていたし、家人がいたので許しを得て写真を撮らせてもらった。
《4 》(平成31年12月8日撮影)
《5 》(平成31年12月8日撮影)
《6 》(平成31年12月8日撮影)
《7 》(平成31年12月8日撮影)
そして、
《8 「武者小路実篤記念館」へ》(平成31年12月8日撮影)
《9 》(平成31年12月8日撮影)
《10 》(平成31年12月8日撮影)
今は、秋の特別展「長與善郎と実篤」(12月15日まで)も開催されていた。その中には演劇に関しても展示されていて興味を引いた。私は今まで、「新しき村」ではしばしば劇が上演されていたということを不注意で知らなかったのだが、これで、農村劇を上演しようと思っていた「羅須地人協会」とはやはり少なからず通底いるぞ、と私はちょっぴり確信した。
それから、あの伊藤勇雄も「新しき村」に来ていたわけだが、同館の学芸員の方にそのことを伺ったならば、ご親切に伊藤の詩が載った『白樺』を探して下さって、その詩も見ることができた。そこで私は、伊藤はたしかにここに来ていたのだと覚った。
また、同館には金子洋文や小牧近江に関しての資料等も所蔵されていて、あることを納得した。それは、かつての投稿〝4219 賢治独自のものと考えられがちだが〟において、
という青江舜二郎の見方にである。そして、同書で青江は引き続き述べていて、
私はこの記述に改めて納得した。
そして同時に、私は反省した。それは、かつて私が青江舜二郎の『宮沢賢治』を読んだときにどうも反発したくなるような点が少なからずあったので、その後の私は青江を否定しがちだったのだが、今回の「武者小路実篤記念館」の訪問によって、それは私の過ちであった、と。そして青江の見方からも学ばねばならぬのだと教わった。
畢竟するに、
続きへ。
前へ 。
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
電話 0198-24-9813
《1 》(平成31年12月8日撮影)
《2 》(平成31年12月8日撮影)
《3 》(平成31年12月8日撮影)
すると、記念館の前の住宅には沢山の花が咲いていたし、家人がいたので許しを得て写真を撮らせてもらった。
《4 》(平成31年12月8日撮影)
《5 》(平成31年12月8日撮影)
《6 》(平成31年12月8日撮影)
《7 》(平成31年12月8日撮影)
そして、
《8 「武者小路実篤記念館」へ》(平成31年12月8日撮影)
《9 》(平成31年12月8日撮影)
《10 》(平成31年12月8日撮影)
今は、秋の特別展「長與善郎と実篤」(12月15日まで)も開催されていた。その中には演劇に関しても展示されていて興味を引いた。私は今まで、「新しき村」ではしばしば劇が上演されていたということを不注意で知らなかったのだが、これで、農村劇を上演しようと思っていた「羅須地人協会」とはやはり少なからず通底いるぞ、と私はちょっぴり確信した。
それから、あの伊藤勇雄も「新しき村」に来ていたわけだが、同館の学芸員の方にそのことを伺ったならば、ご親切に伊藤の詩が載った『白樺』を探して下さって、その詩も見ることができた。そこで私は、伊藤はたしかにここに来ていたのだと覚った。
また、同館には金子洋文や小牧近江に関しての資料等も所蔵されていて、あることを納得した。それは、かつての投稿〝4219 賢治独自のものと考えられがちだが〟において、
武者小路実篤、志賀直哉たちの雑誌『白樺』の創刊は、明治四十三年(一九一〇)である。それはせまくこせこせしていた、わが国の文学運動のからを破って、広い世界的なひろがりの中に中にその自由な生きがいを求めようとするもので、第一次世界大戦前後から大正文学の主流となった。それは個性の解放と人間主義の尊重を主張しながら、一方には武者小路実篤の〝新しき村〟運動、さらには有島武郎の広大な北海道の私有農地の解放という社会的なひろがりを見せるのだが、それと前後して、農民のための文学雑誌『種蒔く人』がはじめて秋田に創刊されたことを見のがしてはならない。
<『宮沢賢治 修羅に生きる』(青江舜二郎著、講談社新書)97p~>という青江舜二郎の見方にである。そして、同書で青江は引き続き述べていて、
私はそうした時代の金子洋文氏を知っているが、やはり黒光りするアルパカの上着が目立つ小学校の代用教員で、地もとの三年制工業学校の卒業生であった。いつもこどもを連れ出しては山野で教え、遊び、しきりに童謡をつくって自分で作曲してはみなに歌わせる。これらは賢治ファンには彼の独自のものと考えられがちだが、決してそうではなく、当時の東北地方には、いたる所にそうした教員が点在していたし、彼らが脚本を書いて教え子たちに劇をやらせることだって、すでに〝新しき村〟の影響で地方の農村に広がっていた。
<同上>私はこの記述に改めて納得した。
そして同時に、私は反省した。それは、かつて私が青江舜二郎の『宮沢賢治』を読んだときにどうも反発したくなるような点が少なからずあったので、その後の私は青江を否定しがちだったのだが、今回の「武者小路実篤記念館」の訪問によって、それは私の過ちであった、と。そして青江の見方からも学ばねばならぬのだと教わった。
畢竟するに、
「当時の東北地方には、いたる所にそうした教員が点在して」いて、賢治もそのうちの一人だった。
ということになりそうだ。続きへ。
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
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