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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
では最後に、
⑻ 「聖女のさまして近づけるもの」は露に非ず
についてである。
第二章の〝㈢ 賢治のためにも「総括見解」を〟において〔聖女のさましてちかづけるもの〕を私は取り上げ、
(このことに関しては後の〝⑻ 「聖女のさまして近づけるもの」は露に非ず〟でまた論ずる)
と前触れした。以下は、そのことについてである。
かつて、次の詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕を最初に見た時、私はとても信じられなかったのだが、賢治は何と、
10・24◎
聖女のさましてちかづけるもの
たくらみすべてならずとて
いまわが像に釘うつとも
乞ひて弟子の礼とれる
いま名の故に足をもて
われに土をば送るとも
わがとり来しは
たゞひとすじのみちなれや 〈『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』〉
という詩を『雨ニモマケズ手帳』に書いていた。まさかあの賢治が怒りに任せ、相手を見下すような文言も書き連ねて詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕を書いていたとはと、私はしばし呆然としていた記憶がある。この詩は、私の言語感覚からすれば単なる「当て擦り」であり、私がそれまで抱いていた賢治像とは全く逆の行為に映ったからだ(しかし今となっては、確かに賢治は修羅の如くなることもあったのだと私は自分自身をある程度納得させてはいるのだが)。しかも、その日付は昭和6年10月24日付だから、その10日後の11月3日に賢治はその手帳に「雨ニモマケズ」を書いていたことになる。両極端とも言えるこの短期間の間の賢治の精神的振幅の大きさに私は愕然とした。そこで、皆さんはこの詩を読んでどう感ずるのだろうか、そう思って少しく調べてみた。
すると、佐藤勝治は「賢治二題」において、この詩に対して、
彼の全文章の中に、このようななまなましい憤怒の文字はどこにもない。これがわれわれに奇異な感を与えるのである。…筆者略…T女は『いまわが像に釘うつ』とまで極言され憎まれている。
かの女と交際しなくなつた何年かあとの病床にまで、なぜこのようにも彼の心を乱したのであろうか。
〈『四次元50号』(宮沢賢治友の会)10p~〉
と述べていた。やはり勝治も同じような認識をしていたようで、「賢治の全文章の中に、このようななまなましい憤怒の文字はどこにもない」とまで言い切っていた。そして、賢治が心を乱したのは誰に対してかというと、勝治は〝T女〟に対してと述べていた。しかも勝治は、その女性に関して、「かの女と交際しなくなつた何年かあとの病床にまで」とか、「私の知っているT家の人々は」ということも述べていたから、
「聖女のさましてちかづけるもの」=T女=高瀬露(小笠原露) ───②
ということになる。なぜならば、このような女性の候補者として周知のように露がいるわけだが、イニシャルがTである賢治周辺のこのような女性としては露以外に見つからないから、勝治はこの等式〝②〟が成り立つと決めつけていたことはまず間違いないからだ。
そしてこのような決めつけ方は、勝治独りのみならず、小倉豊文も〔聖女のさましてちかづけるもの〕について、
この詩を讀むと、すぐ私にはある一人の女性のことが想い出される。
大正十五年四月、花巻郊外の櫻で自耕自炊の獨居生活をはじめた賢治は…筆者略…農業技術の講話をしたりしはじめた。その頃、協會員の一人の紹介で、花巻の西の方の村で小學校教師をしている若い一人の女性が賢治の家に出入するようになつた。彼女はその勤めている學校で賢治が農業の指導講話をした時に、はじめて彼を見たのである。當時田舎には珍しいクリスチャンであつたと言う彼女であるから…筆者略…
〈『宮澤賢治の手帳 研究』(小倉豊文著、創元社、昭和27年)101p~〉
というように、この詩はクリスチャンで小学校教師のこと、つまり露のことを詠んでいると実質的に断定していたことが分かる。
また境忠一も、
(賢治は)昭和六年九月東京で発熱した折の「手帳」に、「十月廿四日」として、クリスチャンであった彼女にきびしい批評を下している。
聖女のさましてちかづけるもの
…筆者略…
たゞひとすじのみちなれや 〈『評伝・宮澤賢治』(境忠一著、桜楓社、昭43)316p~〉
と述べていた。そして以下に続く境の記述から、境も佐藤勝治や小倉同様に、賢治は露のことをモデルにして〔聖女のさましてちかづけるもの〕を詠んでいる、と断定していたことが容易に判る。そこで私も、この三人の様な見方が通説であると思っていた。
しかしはたしてそうなのだろうかという疑問もまた一方ではあった。なぜなら、佐藤、小倉、境の三人は皆、
露はクリスチャンだ、クリスチャンは聖女だ、だから「聖女のさましてちかづけるもの」とは露のことだ。
という論理に拠っているようにしか私には見えないし、この論理はもちろんおかしい。もし仮に、「露はクリスチャンだ、クリスチャンは聖女だ」としても、このことから言えることは、あくまでも
高瀬露は「聖女のさましてちかづけるもの」のモデルである可能性がある。
ということに過ぎない。当然、そのようなモデルが他にいるとすれば、前々頁の〝②〟の等号が成り立つという保証はもちろんなくなってしまう。そして実際、そのようなモデルが露以外にもいる。
それは伊藤ちゑである。ただし、それは何故かということを論ずる前に、まずは、ちゑとはそもそもどのような人物だったのかということを以下に簡単に述べたい。
巷間、伊藤ちゑという人は、賢治が結婚したかった女性と言われている人である。しかし意外なことに、『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著)の中には次のようなことが述べられていて、ちゑと賢治とを結びつけようとする記事を書こうとする著者森荘已池に対して、ちゑは、
今後一切書かぬと指切りしてくださいませ。早速六巻の私に関する記事、拔いて頂き度くふしてふして御願ひ申し上げます。
という哀願や、
ちゑこを無理にあの人に結びつけて活字になさる事は、深い罪惡とさへ申し上げたい。
〈それぞれ、『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)158p、164p〉
というように、強い口調の非難を森宛書簡の中に書いている、という。
しかもそれだけではなく、未だあまり広く世に知られてはいないのだが、同時代の「ある年」の10月29日付藤原嘉藤治宛ちゑ書簡中にも、
又、御願ひで御座居ます この御本の後に御附けになりました年表の昭和三年六月十三日の條り 大島に私をお訪ね下さいましたやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうにいんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で 従って誠におそれ入りますけれど あの御本を今後若し再版なさいますやうな場合は何とか伊藤七雄を御訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます
〈この書簡は、平成19年4月21日第6回「水沢・賢治を語る集い「イサドの会」」 における千葉嘉彦氏 の発表「伊藤ちゑの手紙について―藤原嘉藤治の書簡より」の資料として公にされたものでもある〉
というように、ちゑは嘉藤治に対しても似た様な懇願をしていた。
それから、平成26年9月25日に伊藤ちゑの生家を訪れた筆者(鈴木守)はその際に、当主から、「あの頃私の家では、ちゑと賢治の結婚に皆反対していた」というようなことも教わった。
従ってこれらのことからは、ちゑは賢治と結びつけられることを頑なに拒絶していたということが否定できない。賢治が結婚したかったちゑと言われているというのに何故だったのだろうか。常識的に考えてかなりおかしなことだ。
一方で、ちゑという人は人間的にとても素晴らしい人であったようだ。それは、『光ほのかなれど―二葉保育園と徳永恕』(上笙一郎・山崎朋子著、教養文庫)や『二葉保育園八十五年史』(二葉保育園)等によれば以下のようなことが分かるからだ。
当時、四谷鮫河橋には野口幽香と森島美根が設立した『二葉保育園』が、新宿旭町には徳永恕が活躍した『同分園』がそれぞれあり、同園は寄附金を募ったりしながら、それらを基にしてスラム街の貧しい子女のために慈善の保育活動、セツルメントをしていたという。
ところが大正12年、あの関東大震災によって旭町の『分園』は焼失、鮫河橋の『本園』は火災を免れたものの大破損の被害を蒙ったという。そのような大変な状況下にあった再建未だしの『二葉保育園』に、大正13年9月から保母として勤務し始めた一人の岩手出身の女性がいた。他ならぬ伊藤ちゑその人である。ちなみに同『八十五年史』によれば、ちゑは少なくとも大正13年9月~大正15年及び昭和3年~4年の間勤めていたことが判る。おそらく、この在職期間の空白は兄七雄の看病のために伊豆大島に行っていた期間と考えられる。
ということが分かるからだ。
また、萩原昌好氏の『宮沢賢治「修羅」への旅』によれば、
『島之新聞』の昭和5年9月26日付記事の中には、
あはれな老人へ毎月五円づつ恵む若き女性――伊藤千枝子
〈『宮沢賢治「修羅」への旅』(萩原昌好著、朝文社)317p〉
という見出しの記事があり、兄の看病のために同島に滞在していた伊藤ちゑは、隣家の気の毒な老婆に何くれと世話を焼き、後に東京に戻って『二葉保育園』に復職してからもその老婆に毎月5円もの仕送りをし続けていたという内容の報道があったという。
からだ。
何と素晴らしい人物ではなかろうか、伊藤ちゑという人は。このような『二葉保育園』でスラム街の子女のための慈善の保育活動に我が身をなげうち、あるいはまた何の繋がりもない憐れな老婆に薄給から毎月送金していたという優しい心の持ち主だったということになるからだ。
なお、平成28年10月22日にその『二葉保育園』を私も実際に訪ねてみたところ、
基本的には当時の本園の保母はクリスチャンでしたから、伊藤ちゑもそうだったと思います。
ということを同園の責任者のお一人がを教えてくれた。従って、当時のちゑはクリスチャンであったか、あるいはそうでなかったとしても、『二葉保育園』に勤めてスラム街の貧しい子女のためにストイックで献身的な生き方をしていた「聖女(ここでは、清純で高潔な女性の意)の如き人」であったと言える。そして、賢治はそのちゑと「見合い」をしたわけだから、ちゑが「聖女」のように見えていたであろうこともほぼ間違いなかろう。
よって、
「聖女のさまし」た女性のモデルとして賢治周辺に露がいたが、ちゑもいたのである。
ということを納得してもらえたと思う。延いては先の、
露はクリスチャンだ、クリスチャンは聖女だ、だからこの詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕は露のことをモデルとして詠んでいる。
という断定は安直であるということもこれで納得してもらえたはずだ。とまれ、露一人だけがそのモデルの候補だったわけではなく、ちゑもその候補の一人だったということがこれで明らかになった。
ところで当の賢治は昭和6年頃自身の結婚についてどのように考えていたのだろうか。それは、森荘已池の『宮澤賢治と三人の女性』の中の章、〝Ⅱ 昭和六年七月七日の日記〟から窺える。森荘已池は、昭和6年7月7日の出来事として、次のようなことをそこで述べているからだ。
どんぶりもきれいに食べてしまうと、カバンから二、三円(ママ)の本を出す。和とぢの本だ。
「あなたは清濁あわせのむ人だからお目にかけましよう。」
と宮沢さんいう。みるとそれは「春本」だつた。春信に似て居るけれど、春信ではないと思う――というと、目が高いとほめられた。
…筆者略…そして次のようにいつた。
「ハバロツク・エリスの性の本なども英文で読めば、植物や動物や化学などの原書と感じはちつとも違わないのです。それを日本文にすれば、ひどく挑撥的になつて、伏字にしなければならなくなりますね」
こんな風にいつてから、またつづけた。
「禁欲は、けつきよく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病氣になつたのです。」
自分はまた、ずいぶん大きな問題を話しだしたものと思う。少なくとも、百八十度どころの廻轉ではない。天と地とが、ひつくりかえると同じことぢやないか。
「何か大きないいことがあるという。功利的な考へからやつたのですが、まるつきりムダでした。」
そういつてから、しばらくして又いつた。
「昔聖人君子も五十歳になるとさとりがひらけるといつたそうですが、五十にもなれば自然に陽道がとじるのがあたりまえですよ。みな僞善に過ぎませんよ。」
私はそのはげしい言い方に少し呆れる。
「草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい。」
という。
「いいでしようね。」
と私は答えた。
「いい材料はたくさんありますよ。」
と宮沢さんいう。 〈『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房、昭和24年)107p~〉
というやりとりを紹介しているから、もしこの内容が事実であったとすれば、どうやらこの頃の賢治はかつてとはすっかり様変わりしてしまっていたようだ。
そして前掲書によれば、昭和6年7月7日に森荘已池を前にして賢治は、
「私は(伊藤ちゑと)結婚するかもしれません――」 〈同104p〉
とほのめかし、
「(ちゑが)自分のところにくるなら、心中のかくごでこなければなりませんからね」 〈同106p〉
とも言っていたという。そしてその一方で、前頁にあるように、
禁欲は、けつきよく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病氣になつたのです
と悔いていたということだから、この頃の賢治は独身主義を棄て、ちゑと結婚しようと思っていたという蓋然性が高い。よって、賢治は独身主義だったと巷間言われているようだがこの当時の賢治はどうもそうとは言い切れなさそうだ。
そしてそれは、佐藤隆房も昭和6年のこととして『宮澤賢治』の中で同様なことを、
賢治さんは、突然今まで話したこともないやうなことを申します。
「實は結婚問題がまた起きましてね、相手といふのは、僕が病氣になる前、大島に行つた時、その嶋で肺を病んでゐる兄を看病してゐた、今年は二七、八になる人なんですよ。」
釣り込まれて三木君はきゝました。
「どういふ生活をして來た人なんですか。」
「何でも女學校を出てから幼稚園の保姆か何かやつてゐたといふことです。遺産が一萬圓とか何千圓とかあるといつてゐますが、僕もいくら落ぶれても、金持ちは少し迷惑ですね。」
「いくら落ぶれてもは一寸をかしいですが、貴方の金持嫌ひはよく判つてゐます。やうやくこれまで落ちぶれたんだから、といふ方が當るんぢやないんですか。」
「ですが、ずうつと前に話があつてから、どこにも行かないで待つてゐたといはれると、心を打たれますよ。」
「なかなかの貞女ですね。」
「俺の所へくるのなら心中の覺悟で來なければね。俺といふ身體がいつ亡びるか判らないし、その女(ひと)にしてからが、いつ病氣が出るか知れたものではないですよ。ハヽヽ。」
〈『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年)213p~〉
と記述していることからも裏付けられる(もちろんこの「三木」とは森荘已池のことであり、ちなみに昭和26年の同改訂版では「森」になっている)。
では、一方のちゑは賢治との結婚について当時どのように考えていたのだろうか。まずは、前掲(本書75p)の10月29日付藤原嘉藤治宛ちゑ書簡により、昭和3年6月の大島訪問以前の秋に、おそらく昭和2年の秋に花巻で賢治とちゑの「見合い」があったと判断できる。そして、実はこのことについて後にちゑは、『私ヘ××コ詩人と見合いしたのよ』というような直截な表現を用いて深沢紅子に話していたという。
なお、現時点ではこの発言を活字にする事は憚られるので一部伏せ字にした。ちなみに、この『私ヘ××コ詩人と見合いしたのよ』については、私は二人の人から違うルートで聞いている(そのうちの一人は佐藤紅歌の血縁者で平成26年1月3日に、もう一人は関東の宮澤賢治研究者である(ただしその時期はそれ以前なのだがそれが何時だったかは失念した)。
このちゑのきつい一言をたまたま知ることができた私は当初、ちゑは「新しい女」だったと仄聞していただけに流石大胆な女性だなと面喰らったものだが、それは、前述したような当時のちゑのストイックで献身的な生き方をそれまでの私が少しも知らなかったことによる誤解だった。
そして昭和3年6月に賢治は大島を訪れてちゑと再会したわけだが、ちゑは賢治の「今」を見抜いてしまった可能性が否定出来ない。というのは、兄の伊藤七雄は労農党の活動家だったから、賢治が農繁期の花巻を離れたのはあの「アカ狩り」から逃れるためであったと見られていた可能性もある。となれば、スラム街の貧しい子女のために慈善の保育活動をしていたちゑからすればなおさらに、当時の賢治にはかつてのような輝きは失われてしまったと見えたことが十分に考えられる。だから、ちゑは森荘已池宛書簡において、その再会の時は、
――あの人の白い足ばかりみていて、あと何もお話しませんでした。――
〈『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)145p〉
と書いていたのではなかろうか。
そしてその後、いくら森が賢治とちゑを結びつけようとしても頑なにそれを拒絶したのはちゑの矜恃だったのだ、とも解釈できる。つまるところ、当時のちゑは賢治との結婚をやはり拒絶していたと言えそうだ。
さてこれで、〔聖女のさましてちかづけるもの〕のモデルとしては、露のみならず「聖女のさまし」た女性として別にちゑがいることがわかった。そしてその一方で、賢治周縁の女性でしかもクリスチャンかそれに近い女性は他にいないから、結局のところ、
「聖女のさましてちかづけるもの」のモデルとして考えられる人物は高瀬露か伊藤ちゑの二人であり、この二人しかいない。
ということを肯んじてもらえるはずだ。では、一体この二人の中でどちらが当て嵌まるのかを次に考えてみたいのだが、結論を先に言ってしまえば、
「聖女のさましてちかづけるもの」のモデルは限りなくちゑである。
となる。なぜならばそれは以下のような理由からだ。
これまでのことを簡単に振り返って見れば、
・賢治は昭和6年の7月頃伊藤ちゑとならば結婚してもいいと思っていたが、そのちゑは賢治と結婚することを拒絶していたという蓋然性がかなり高い。
・それに対して高瀬露の方だが、賢治は昭和2年の途中から露を拒絶し始めていたということだし、しかも昭和3年8月に「下根子桜」から撤退して実家にて病臥するようになったので露との関係は自然消滅したと一般に言われている。
から、
・ちゑ:賢治が森の前で、ちゑと「結婚するかもしれません」とほのめかしたという、その約2カ月半後に、
・露:「レプラ」と詐病したりして賢治の方から拒絶したと云われている露に対して、その約4年後に、
どちらの女性に対して、例の「このようななまなましい憤怒の文字」を連ねた〔聖女のさましてちかづけるもの〕という詩を当て擦って詠むのかというと、それは
ちゑ ≫ 露 (「A≫B」とは「AはBより非常に大きい」という意味)
となる、つまり、ほぼ間違いなくちゑに対してであるとなることは自明だろう。とりわけ、ちゑは賢治との結婚を拒絶していたと判断できるからなおさらにだ。いやそうではないと言う人もあるかも知れないが、もしそうだとすれば〔聖女のさましてちかづけるもの〕は露に対して当て擦った詩となるから、賢治は異常に執念深くて腑甲斐無い男だということになるし、賢治が大変世話になった露に対していわば「恩を仇で返す」ということになるから、流石にそれはなかろう。
従って、この昭和6年10月に詠んだ〔聖女のさましてちかづけるもの〕は、同年7月頃、ちゑとならば結婚してもいいと思っていたという賢治がちゑからそれを拒絶され、自分の思い込みに過ぎなかったということを思い知らされた末の憤怒の詩だったと判断するのが極めて自然であろう。つまり、「聖女のさまして近づけるもの」とは露のことではなくてちゑのことである、という蓋然性が極めて高いということであり、それ故に、〔聖女のさまして近づけるもの〕のモデルは限りなくちゑである、と言える。
よっておのずから、次の
〈仮説❸〉「聖女のさましてちかづけるもの」は少なくとも露に非ず。
が定立できることに気付くし、反例の存在も限りなくゼロだ。しかし、それでもやはりそれはちゑではなくて露だと主張したい方がいるのであれば、それを主張する前にちゑがそのモデルでないということをまず実証せねばならない(さもないと、いわば排中律に反するようなことになるからだ)。だが、その実証は今のところ為されていないので、この〈仮説❸〉の反例は実質的に存在していないと言えるから、現時点では限定付きの「真実」となる。言い換えれば、高瀬露をモデルにしているとは言い切れない一篇の詩〔聖女のさまして近づけるもの〕を元にして、露を〈悪女〉にすることができないのは当然のことだ。
私はここで自問せねばならない。それは天沢退二郎氏が『新編 宮沢賢治賢治詩集』(新潮文庫)の415pで、
一見リアルな、生活体験に発想したとみえる詩篇もまた、単純な実生活還元をゆるさない、
と戒めていることをだ。このことは意識しているつもりでも案外忘れがちだ。かつての私などは特に賢治に関する場合にはそうだった。しかし、賢治作品と雖も安易に還元できないのであって、当該の詩を元にして事実を論じたいというのであれば、まずは裏付けを取ったり、検証したりしてからの話であることは当然のことだ。もちろんそれは、作品と事実の間には非可逆性があるからだ。
ところが、それらの当然なすべきことを手抜きするとどんなまずいことが起こるのか。それを教えてくれるのがこの詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕だ。裏付けも取らず検証もせず、しかも人権意識が希薄な場合、還元さえも飛び越えて自分勝手に解釈してそれを「事実」だと決めつけ、結果、人を傷つけてしまった、と。詳しくは拙著『本統の賢治と本当の露』の〝第二章 本当の高瀬露〟をご覧になっていただきたいのだが、もう少し具体的に述べると、この〔聖女のさましてちかづけるもの〕というたった一篇の詩によって、賢治をあれこれと助けてくれた一人の女性をとんでもない〈悪女〉と決めつけて濡れ衣を着せてしまった、と。しかも、そうされる客観的根拠は全くないというのにも拘わらずである。そこで私は恐れる。この何よりも人権が重視される今の時代になっても賢治周辺では人権意識があまりにも薄いのではないか、というような誹りを受けかねないことをだ。
なお、最後に声を大にして次のことを改めて言っておきたい。それはこの詩のモデルが伊藤ちゑであったとしても、ちゑという人はスラム街の貧しい子女のために献身するなどのストイックな生き方をし、あるいは、身寄りのない憐れな老婆に薄給から毎月送金していたというようなとても優しい心の持ち主でもあり、清純で高潔なまるで「聖女」のような人であり、しかも実践活動家であり、崇敬すべき人物であった、ということを(さらなる詳細は、拙論「聖女の如き高瀬露」(上田哲との共著『宮澤賢治と高瀬露』所収)も参照されたい)。
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《新刊案内》この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』
を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。延いては、
小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、 『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。
そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。
そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。
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