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《『本統の賢治と本当の露』(鈴木 守著、ツーワンライフ社)
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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
4.「一九二八年の秋の日」の「下根子桜訪問」
それでは、露に関して「あやかしでない」と思われるものとしては何がこの「下敷」に書かれているのだろうか。それは、
彼女にはじめて逢った時の様子を『宮沢賢治と三人の女性』に森は高瀬露についていろいろと書いているが、直接の見聞に基いて書いたものは、この個所だけであるから参考までに引用しておく。 〈『七尾論叢11号』(七尾短期大学)77p〉
と上田が同論文中で断り書きをして引用している、唯一「直接の見聞」に基づいたと考えられる次の記述、
一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであった。…(筆者略)…
ふと向うから人のくる氣配だった。私がそれと氣づいたときは、そのひとは、もはや三四間向うにきていた。…(筆者略)…半身にかまえたように斜にかまえたような恰好で通り過ぎた。私はしばらく振り返って見ていたが、彼女は振りかえらなかった。 〈同77p〉
だ(たしかに、『宮澤賢治と三人の女性』の74p以降にこのように書いてある)。
ところが肝心のこれが大問題となる。「一九二八年の秋」であれば、賢治は豊沢町の実家で病臥していたのだから「下根子桜」にはもはや居らず、この引用文に書かれているような「下根子桜訪問」は森には不可能であり、「一九二八年の秋」という記述は致命的ミスであることが明らかだからだ。
そこで、『新校本年譜』はこの「下根子桜訪問」についてどうしたかというと、
「一九二八年の秋の日」とあるが、その時は病臥中なので本年に置く。 〈『新校本年譜』、359p〉
と註記して、これを「一九二七年の秋の日」と読み変えている。つまり同年譜は、「一九二八年」は森の単純なケアレスミスだったと判断していることになる。しかしながらこのような判断は安直であり、論理的でもない。そもそも、大前提となるそのような「下根子桜訪問」自体が確かにあったという保証は何ら示せていないからだ。
まして上田の前掲論文中〈同81p〉には、「露の「下根子桜訪問」期間は大正15年秋~昭和2年夏までだった」という意味の露本人の証言も載っているから、もしそうだったとすれば、「一九二七年(昭和2年)の秋」に森が「下根子桜」を訪ねたとしても道の途中で露とはすれ違えないので、尚更その保証が必要となる。
しかもよくよく調べてみたならば、賢治が亡くなった翌年の昭和9年発行の『宮澤賢治追悼』でも、『宮澤賢治研究』(昭14)でも、そして『宮沢賢治の肖像』(昭49)でも皆、その「下根子桜訪問」の時期を森は「一九二八年の秋」としていて、決して「一九二七年の秋」とはしていなかった。こういうことであれば、「一九二七年の秋」に森は「下根子桜」を訪問していなかったと、普通は判断したくなる。
そんな時にふと思い出したのが、『宮澤賢治と三人の女性』では西暦が殆ど使われていなかったはずだということだ。そこでそのことを調べてみたならば案の定、全体で和暦が38ヶ所もあったのに西暦は1ヶ所しかなく、それがまさに「一九二八年の秋の日、私は下根子云々」の個所だけだった。しかも、同じ年を表す和暦の「昭和三年」を他の5ヶ所で使っているというのにも拘らずである。
となれば、あれはケアレスミスなどでは決してなく、彼にはその訪問の年を「一九二七年」とはどうしても書けない何らかの「理由」が存在していたという蓋然性が高いと言える。しかもそこだけは和暦「昭和三年」を用いずに西暦を用いているということから、ある企みがそこにあったのではなかろうかと疑われても致し方なかろう。
もはやこうなってしまうと、件の「下根子桜訪問」の年を森は決して「一九二七年」と書くわけにはいかなかったということがほぼ明らかだ。おのずから、同年の秋の日に森はそのような訪問そのものをしていなかったということも否定できなくなったので、今までの大前提が崩れ去り、この「直接の見聞」は実は単なる創作だったということがいよいよ現実味を帯びてきた。
一方で、次のような疑問が湧く。森は『宮沢賢治 ふれあいの人々』(熊谷印刷出版部)の17pで、
この女の人が、ずっと後年結婚して、何人もの子持ちになってから会って、いろいろの話を聞き、本に書いた。
と述べていながら、上田に対しては、
〈一九二八年の秋の日〉〈下根子を訪ねた〉その時、彼女と一度あったのが初めの最後であった。その後一度もあっていない。 〈『七尾論叢11号』(七尾短期大学)77p〉
と答えたという。もちろんどちらの女性も露のことであり、森は露と会ったのは一度きりと述べたり、別の機会にも会ったと述べたりしていることになるから、件の「下根子桜訪問」に関して森は嘘を言っていた蓋然性が高い。ならばいっそのこと逆に、是非はさておき、その訪問時期は「一九二七年の秋の日」だったと森は始めから嘯くという選択肢だってあったはずだがなぜそうはしなかったのだろうか、という疑問が湧くのだった。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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《新刊案内》この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』
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を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。延いては、
小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、 『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。
そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。
そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。
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