
《松田甚次郎の胸像》( 新庄鳥越八幡宮、平成21年11月10日撮影)
次は、いよいよ例の第一回目の農村劇「水涸れ」についてだ。
甚次郎は次のようなことを『土に叫ぶ』の中で述べていた。
水涸れ 私は六反歩の小作農になり、粗衣粗食で家の仕事に從事しながら、自分の田を耕し、やがて田植も終らうとして、寄手苗餅も明日にひかへた頃から水が不足しだした。それからといふものは、毎日毎晩休む日も眠る時もなく、人目を避け忍んで、二里ほど餘りある石ばかりの道を眞夜中に往復。それでも我が田に水が引かれず、もう早苗は枯れんばかになつた。雨は降るがそれこそ焼石に水だ。…(投稿者略)…村の人々はこの並大抵ならぬ苦行を、何年も體験して居る。鬪って居る。その偉さに敬虔の氣持ちに打たれた。
…(投稿者略)…そして水掛けも終りとなり、わが田も八分作位に止まりさうになつて、村には樂しいお盆が近づいたのだ。それで或日の倶樂部で「今年のお盆かお祭に、お互いで作つた劇をお互いでやつて見ようではないか」とすゝめたら、幸ひなるかな、一同快く賛成してくれた。それから一ヶ月間餘暇を盗んで、初體験の水掛けと村の夜の事を脚本として書いて見た。…(投稿者略)…何だか脚本として物足りなくて仕樣がないので困つてしまつた。「かういふ時こそ宮澤先生を訪ねて教えを受くべきだ」と、僅かの金を持つて先生の許へ走つた。先生は喜んで迎へて下さつて、色々とおさとしを受け、その題も『水涸れ』と命名して頂き、最高潮の處に篝火を加へて下さつた。この時こそ、先生と最後の別離の一日であつたのだ。
〈『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)27p〉…(投稿者略)…そして水掛けも終りとなり、わが田も八分作位に止まりさうになつて、村には樂しいお盆が近づいたのだ。それで或日の倶樂部で「今年のお盆かお祭に、お互いで作つた劇をお互いでやつて見ようではないか」とすゝめたら、幸ひなるかな、一同快く賛成してくれた。それから一ヶ月間餘暇を盗んで、初體験の水掛けと村の夜の事を脚本として書いて見た。…(投稿者略)…何だか脚本として物足りなくて仕樣がないので困つてしまつた。「かういふ時こそ宮澤先生を訪ねて教えを受くべきだ」と、僅かの金を持つて先生の許へ走つた。先生は喜んで迎へて下さつて、色々とおさとしを受け、その題も『水涸れ』と命名して頂き、最高潮の處に篝火を加へて下さつた。この時こそ、先生と最後の別離の一日であつたのだ。
なお、この「最後の別離の一日」 とは、昭和2年8月8日のことであった。
そして紆余曲折はあったものの、同年9月10日に鳥越村の村社である八幡神社境内に土舞台を作ってこの『水涸れ』は上演されたという。それも、「たつた十六歳から一九歳迄の(二十餘名の)少年が自発、自治、一円八十銭の経費で、六百名の前で演じた」というものであり、しかもこの「事が、その後十年目に二萬餘圓の大貯水池<*1>築造の目的を達成せしむる基礎と動機を與えようとは誰も想像しなかったであらう」〈共に同35p〉ということである。
ちなみに、『水涸れ』の第4幕については、
村の重立つた人の對策協議會だ。川原だ、盛んに議論が出るが、次第に協調へと話がはずんで行く。結論は――お互に水盗みをやり、水番をやり、喧嘩をやる力と時間で、水源近くに貯水池を築造して、春先の雪融け水を貯へておいて、水涸れの季節に流せば問題はない。要は、お互が利己主義で相殺するか、協同で互助するかの精神問題である。お互に幸福をのぞむ以上は、互助協同の旗の下に、貯水池築造に邁進すべきだ――これで最後の幕が静かに下りる。
<『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)より> というものであったと甚次郎は綴っている。
なお、安藤玉治によれば、
この劇がきっかけとなり、貯水池築造の計画がまとまり、一〇年後の昭和十三年五月に完成をみている。
村からは以後水掛けによるけんかは姿を消したのであった。
〈『「賢治精神」の実践』(安藤玉治著、農文協)64p~〉村からは以後水掛けによるけんかは姿を消したのであった。
という。つまり、『水涸れ』の第4幕が正夢となったわけである。
そして、甚次郎はその後も賢治の「訓へ」どおりに農村劇に取り組み続けた。その農村劇の公演リストは以下のとおりである。
昭和2年4月25日 鳥越倶楽部を結成する
〃 9月10日 農村劇「水涸れ」公演
昭和4年 農村劇「酒造り」公演
昭和5年9月15日 農村劇(移民劇)公演
昭和6年9月 農村劇「壁が崩れた」公演
昭和7年2月 農村劇「国境の夜」公演
昭和8年2月 農村劇「佐倉宗吾」公演
昭和9年 農村喜劇「結婚後の一日」公演
昭和10年12月 「ベニスの商人」公演
〃 暮 選挙粛正劇「ある村の出来事」公演
昭和11年4月 農村劇「故郷の人々」「乃木将軍と渡守」公演
昭和12年1月10日 「農村劇と映画の夕」公開
(実家の都合により塾一時閉鎖)
(昭和13年5月18日 「土に叫ぶ」出版)
昭和13年 農村劇「永遠の師父」公演
昭和14年8月15日 農村劇「双子星」公演
昭和15年 二千六百年奉祝の舞踏と奉祝歌公演
昭和17年2月 農村劇「勇士愛」公演
昭和18年3月21日 「種山ヶ原」「一握の種子」公演
昭和18年8月4日 松田甚次郎逝去(享年35歳)
<『土に叫ぶ』及び『宮澤賢治精神の実践』(安藤玉治著、農文協)の年譜より抜粋)>〃 9月10日 農村劇「水涸れ」公演
昭和4年 農村劇「酒造り」公演
昭和5年9月15日 農村劇(移民劇)公演
昭和6年9月 農村劇「壁が崩れた」公演
昭和7年2月 農村劇「国境の夜」公演
昭和8年2月 農村劇「佐倉宗吾」公演
昭和9年 農村喜劇「結婚後の一日」公演
昭和10年12月 「ベニスの商人」公演
〃 暮 選挙粛正劇「ある村の出来事」公演
昭和11年4月 農村劇「故郷の人々」「乃木将軍と渡守」公演
昭和12年1月10日 「農村劇と映画の夕」公開
(実家の都合により塾一時閉鎖)
(昭和13年5月18日 「土に叫ぶ」出版)
昭和13年 農村劇「永遠の師父」公演
昭和14年8月15日 農村劇「双子星」公演
昭和15年 二千六百年奉祝の舞踏と奉祝歌公演
昭和17年2月 農村劇「勇士愛」公演
昭和18年3月21日 「種山ヶ原」「一握の種子」公演
昭和18年8月4日 松田甚次郎逝去(享年35歳)
やはり甚次郞という人は、ただ思いつきを語るだけではなく、徹底して実践した人だっのだ。だからこそ、あのような『追悼 義農松田甚次郎先生』が発行された訳か。それは、あの『宮澤賢治追悼』と較べてみると、なおさらに見えてくる。
<*1:註>【転坂(うとざか)堤】

この堤は第1回目(昭和2年)に上演された農村劇『水涸れ』が切っ掛けでその約10年後、昭和13年5月に二萬余円を懸けて築造した貯水池である。
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ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れ難いと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。
そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円)である。

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