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みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

3299 「藤根禁酒会」と賢治

2013-05-26 09:00:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛される賢治に》
 さて、伊藤七雄とちゑ兄妹が花巻を訪ねたのは昭和2年の秋である可能性もあるということを先に述べたが、そういえば「昭和2年の秋」以降の賢治の営為というのはよくわからないところがあった<*1>なと思っていたところへ、たまたま読んでいたある本に興味深い記述があった。
『わがかくし念仏』より
 その本とは阿伊染徳美(あいぜんとくみ)著『わがかくし念仏』であり、そこには次のようなことが述べられていた。
 実は、宮沢賢治の詩に、岩崎村つまりオレの村に、禁酒運動の集まりのために行く、という詩がある(「藤根禁酒会へ贈る」作品一〇九二番)。…(略)…
 賢治は花巻からよくやってきたようで、詩の中にある藤根というの青年たちも、熱心に賢治を信奉していたそうだ。
               <『わがかくし念仏』(阿伊染徳美著、思想の科学社)203p~から>
 もしこの記述内容が正しいとするならば、賢治はこの時のみならずしばしば藤根や岩崎にやって来ていたことになり、しかもその当時から賢治は藤根の若者達から信奉されていたということになる。このことについては私は今まで知らなかったので関心を引いた。
 なお、この阿伊染徳美氏とは和賀郡岩崎村(現北上市和賀町岩崎)の出身の画家のようである。また、もちろんこの詩とは次の詩のことである。
一〇九二    藤根禁酒会へ贈る
                  一九二七、九、一六、
   わたくしは今日隣村の岩崎へ
   杉山式の稲作法の秋の結果を見に行くために
   ここを通ったものですが
   今日の小さなこの旅が
   何といふ明るさをわたくしに与へたことであらう
       …(略)…
   この会がどこからどういふ動機でうまれ
   それらのびらが誰から書かれ
   誰にあちこち張られたか
   それはわたくしにはわかりませんが
   もうわれわれはわれらの世界の
   一つのひゞを食ひとめたのだ
   この三年にわたる烈しい旱害で
   われわれのつゝみはみんな水が涸れ
   どてやくろにはみんな巨きな裂罅がはいった
   われわれは冬に粘土でそれを埋めた
   時にはほとんどからだを没するくらゐまで
   くろねを堀ってそこに粘土を叩いてつめた
   それらの田には水もたまって田植も早く
   俄かに変ったこの影多く雨多い七月以后にも
   稲は稲熱に冒されなかった
   諸君よ古くさい比喩をしたのをしばらく許せ
   酒は一つのひびである
   どんなに新らしい技術や政策が
   豊かな雨や灌漑水を持ち来さうと
   ひびある田にはつめたい水を
   毎日せはしくかけねばならぬ
   諸君は東の軽便鉄道沿線や
   西の電車の通った地方では
   これらの運輸の便宜によって
   殆んど無価値の林や森が
   俄かに多くの収入を挙げたので
   そこには南からまで多くの酒がはいって
   いまでは却って前より乏しく
   多くの借金ができてることを知るだらう
   しかも諸君よもう新らしい時代は
   酒を呑まなければ人中でものを云へないやうな
   そんな卑怯な人間などは
   もう一ぴきも用はない
   酒を呑まなければ相談がまとまらないやうな
   そんな愚劣な相談ならば
   もうはじめからしないがいゝ
   われわれは生きてぴんぴんした魂と魂
   そのかゞやいた眼と眼を見合せ
   たがひに争ひまた笑ふのだ

   じつにいまわれわれの前には
   新らしい世界がひらけてゐる
   一つができればそれが土台で次ができる

              <『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)203p~より>
この詩に詠まれていることに従うとすれば、賢治が「禁酒運動の集まりのため」に出掛けたわけではなくて、「杉山式の稲作法の秋の結果を見に行くために」岩崎に出掛けたのではなかろうかと私には思えるが、少なくとも賢治は「藤根禁酒会」に対しては理解を示しているばかりでなく、かなり共鳴していたであろうことが導き出せそうだ。
*****************************************************
<*1:註>
【賢治下根子桜時代の詩創作数推移】

          <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜篇』(筑摩書房)よりカウント>
 昭和2年3月~8月迄は極めて旺盛だった賢治の詩の創作であったが、この8月を境としてしばらく途絶えたということが一目瞭然である。まるでそれは、ろうそくの火が燃え尽きるかの如き現象とそっくりである。賢治はなぜ急激に創作意欲が萎えてしまったのだろうか。

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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
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