【東北砕石工場技師時代の賢治(1930年頃 撮影は稗貫農学校の教え子高橋忠治)】
<『図説宮澤賢治』(天沢退二郎等編、ちくま学芸文庫)190pより>
<『図説宮澤賢治』(天沢退二郎等編、ちくま学芸文庫)190pより>
では今回は、「搗粉販売に力を入れる」という項からである。そこにはまずこんなことが述べられている。
農繁期は五月末頃までで、その頃を過ぎると農家向けの受注は途絶えてしまう。
〈『あるサラリーマンの生と死』(佐藤竜一著、集英社新書)151p〉さてそうすると、この農繁期とはどんな農繁期なのだろうか。そこで、『農業科学博物館』の
第39回・企画展「岩手の稲作技術と農機具の変遷」
を見てみると、「●育苗方法と田植え時期の違い」の中に、
育苗様式 時代 播種期 田植期
水苗代 ~昭和10年 4月下旬~5月上旬 5月下旬~6月上旬
という記述があったので、昭和初期の田植えは「5月下旬~6月上旬」に行われていた、ということがわかる。
また同じく、「第19回・企画展「水田除草用具の移り変わり」」には、
水田の除草は、6月の梅雨期から夏の炎天下に行うものであり、稲作作業では過酷な作業の1つです。
という記述もあった。ということは、佐藤氏が「農繁期は五月末頃までで」といっている意味はおそらく、「農繁期は田植えが終わるまでで」という意味になりそうだ(たしかに、かつての手植え時代にはこの時期は「猫の手も借りたい」といわれていたという記憶が私にもあるから)。
とはいえ、「農繁期は五月末頃までで、その頃を過ぎると農家向けの受注は途絶えてしまう」ということは、逆に言えば、賢治が施用を薦めていた「タンカル」は農繁期のこの時期に田圃に撒かれていたと推測できるのだが、どうもそれほどのタンカルの注文が農家からあったとは思えない。それは、当時農家全体の戸数の約6割を占めていた小作や自小作農家では金肥の購入は現実的に殆どあり得なかったはずだからだ。これらの農家は貧しいが故に金肥を買う余裕など当然ない。しかも、稲作にとって石灰はそれほど必要ではない<*1>ということ、あるいは、過用は却って悪影響を及ぼす<*2>ということを賢治自身も知っていたはずだからなおさらにだ。どうやら先の件は、一度根本から検証し直してみる必要がありそうだ。
実際、私の検証結果によれば、
羅須地人協会時代に既に「稲は酸性に耐性がある」ということを賢治は知っており、石灰施与のリスク〝石灰を施与することはかえって害になるとか、せいぜい加えないことと同じだったということがある。………③〟も知っていたはずなのに、同工場技師時代になってからは、それらのことを等閑視せざるを得ないという現実、はては枉げたり話を盛ったりせざるを得ないという現実から賢治は逃れられなかったはずだ。
〈『県民文芸作品集 No.51』(第73回岩手芸術祭実行委員会)113p〉<*1:投稿者註> 賢治は、『土壌要務一覧』の中で、
一一、耕土ノ反応ハ中性ヲ望ム。洪積台地ハ、殆ド酸性デアル。適量ノ石灰木灰ヲ施用スルコト、有機性酸性ナラバ(六)中ノ方法ヤ焼土等之ヲ矯正スル。尤モ水稲陸稲小麦蕎麦ハ酸性ニモ耐ヘル。大麦ヤ荳菽類ハ耐エナイ。
<それぞれ、『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』(筑摩書房)149p、150pより>と賢治は書いているからである。
<*2:投稿者註> 羅須地人協会時代に賢治が使った〔教材用絵図 四九〕によれば、
石灰を施与することはかえって害になるとか、せいぜい加えないことと同じだったということがある。………③
〈『県民文芸作品集51』(第73回岩手芸術祭実行委員会)109p~〉
ということが導かれるからである。
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