《創られた賢治から愛すべき賢治に》
ではここでは年度が改まって、大正15年4月1日後の賢治の行為に関する、ある教え子の証言をみてみよう。これは以前一度触れたことだが、今一度振り返ってみれば新たなことが見えてきたような気がするからである。小田島留吉
これは、板垣亮一が書き残した著書『賢治と私』から、ご子息の板垣寛氏が自身の著書『賢治先生と石鳥谷の人々』に転載したものであり、寛氏は大正15年の4月の花巻農学校の入学式について
その年の入学式の日に、
「私は、今後この学校には来ません」
廊下と講堂の入口に、賢治自筆の紙が貼ってあったという。
この紙を見て退職を知ったと、東和町の小田島留吉が話していた。
<『賢治先生と石鳥谷の人々』(板垣寛著)26pより>「私は、今後この学校には来ません」
廊下と講堂の入口に、賢治自筆の紙が貼ってあったという。
この紙を見て退職を知ったと、東和町の小田島留吉が話していた。
というところの、小田島留吉の証言を同書において紹介している。
ところで、『宮沢賢治-地人への道-』所収の「卒業生名簿」にはこの〝小田島留吉〟という名そのものは見つからないが、昭和2年4月の卒業生36名の中に〝佐々木留吉〟という名があるから、年度から言って
〝小田島留吉〟=〝佐々木留吉〟
というこであり、おそらくこの人の証言ということになるであろう。
すると、その時まだ在校生であった小田島が「この紙を見て退職を知った」わけだから、賢治が辞めたことは在校生は年度が明けてから初めて知ったということになるようだ。となれば、まして賢治の退任式などは行われなかったということがこれで決定的だ。
それにしても、賢治の衝動的な年度末の切羽詰まったような退職、そして年度が明けてからの、わざわざ農学校に赴いて行って「私は、今後この学校には来ません」と書いた紙を貼ったという、賢治の一連の行為は正直理解に苦しむ奇異な行動に見えてしまい、いわゆる何かに対する〝当て付け〟であったともそれはとられかねない。
そしてこのことに鑑みれば、逆にあの大正15年4月1日の新聞報道にも賢治のある意図と思惑があったのではなかろうか、という可能性が自ずから導出されてきそうだ。
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『賢治が一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』
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