気の向くままに

山、花、人生を讃える

とんでもない誤解

2014年09月06日 | 信仰

人間は誰でも寛大になりたいのであって、狭量になりたいなどと思っている人はいないはずだと思うのだが、不思議なことに、世界には自分たちが崇めている神を、人間が神様の気にいらないことをしたら怒って罰を当てるなどと信じている人がたくさんいるらしい。

人間だって良い親なら子供に寛大であるはずで、もし、子供に怒ってしまったら、親として情けなくなるのが普通ではないかと思う。もちろん、怒らなければならない時もあるだろうが、しかし、どんな親でも子供に罰を与えたいとは思わないだろう。

その癖、神様は罰を当てるものだと信じている。そして一方では、神は愛だという。考えて見れば不思議なことだ。神を信じていない人でさえ、なんとなく神様をそんなイメージで見ているようだ。

ニール・ドナルド・ウオッシュの『10代のための神との対話』という本の中で、「私は裁かない」と神が言うと、オスロの13歳の少女がびっくりしたように、こう答えている。

「神が裁かないですって?それが神様のすることだと思ってたわ!」

わたしも生長の家の教えを知るまでは、神がいるとは思ってなかったが、それでも、ばくぜんとした神のイメージがあって、そのイメージはこの少女と同じようなものだったと思う。だからこの少女が口にしたことは、実に素直だと思うし、とても共感できる。

「神ははたして人を罰するのか、それとも、全然そうではないのか?」多くの人にとって、こんな疑問はどうでもよいかもしれないが、まあ、神様の言い分をちょっとだけ聞いてやって下さい。

これからいうことは、ニール・ドナルド・ウオッシュ著の『神との対話』シリーズの中で書かれていたことですが、まあ、こんなようなことを言っています。(かなりいい加減な記憶ではありますが、大きな間違いはないはず)

わたしは何人も罰したりはしないし、裁くこともない。人間は「悪いものは罰しなければならない」という考えに捉われていて、その考えをわたし(神のこと)にあてはめて「神は罰する」ものだと考えはじめた。この考えは、神を信じていない人たちにも広く浸透している。そして、さらにそこから、自分と考えの違う者を殺りくしてもよいと正当化するようになり、殺戮を神の意志だというものまで現われた。人類は長い歴史の中で幾度もそんなことを繰り返してきた。そんな歴史の繰り返しに終止符を打ちたいなら、神が人を裁いたり罰したりするという、あなたがたの神に対する信念を変える必要がある。

いやあ、これが本当なら、たかが迷信などと笑っておれないですね。

 ちなみに少女が「神が裁かないですって?それが神様のすることだと思ってたわ!」に対し、神の返答はこうなっています。

神:人間は長い間、ずっと、そう思ってきたね。でも違うんだ。それは真実ではない。それは大きな「誤解」の一つだ。あなたがたの思い違いなんだよ。「裁き」があるという幻想、そして、それは「非難される」という幻想につながっていく。『聖書』にも、「裁くなかれ、非難するなかれ」と書いてあるのにね。

 

≪追記≫

聖書のマタイ伝にはイエス・キリストの言葉として次のように書かれています。

○天の父はその日を悪しき者のうえにも、善き者のうえにも照らし、雨を正しき者にも、正しからぬ者にも降らせ給うなり。 (マタイ伝 第五章 四十五節)

 

また、生長の家の『実相研鑽』という本の中には、次のような親鸞の言葉が出ている。

○大悲倦(あ)くことなく我を照らす。

 「大悲倦(あ)くことなく我を照らす」いいですねえ、この言葉。思い出すだけで神の愛に包まれている気がしてきます。