気の向くままに

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困った時の神頼み

2009年04月12日 | 人生


長い人生のうちには、何度か「困った時の神頼み」をしたくなるような状況を迎えることがあると思う。そのような時、どのような方法であれ、困った時の神頼みができる人は幸せな人だと思う。
わたしも大なり小なり何度か困った時の神頼みのような真似をしてきて、この最後の一手のあることの有難さをしみじみ思うようになりました。

こう書くと、「困った時の神頼みで功徳があるか」と、問う人があるかもしれない。
そんな人には、わたしは迷わず「ある」と答えたい。

これまでの人生でわたしが最も不安になったのは、息子が或る問題を起こした時で、その時には、神想観(一つの瞑想法)をしたそのすぐ後からまた不安が押し寄せ、また神想観をせずにはいられないという状況でした。結局、この時は数時間のうちに4回も5回も神想観を繰り返し、解決するまでの数日、そういう状況が続いたことがありました。

神想観中は、ひたすら神に心を振り向け、大調和の世界を観ずるのですが、それによって、短時間とは言え、まず、不安な現実を「離れる」という功徳があり、次には心の平安をいくらかは取り戻すことができるという功徳があると思う。

その結果、「しなければならないことをともかくやろう」という気持ち、この場合は勇気と言った方がいいと思いますが、不安なうちにもちょっとした勇気も出てきて、なすべきことをなし、終わってみれば、結果オーライということになっている。

この結果については、神頼みの功徳と言えるかどうかは、はっきりしない。
しかし、①不安な現実から離れることができる。②不安を離れ、大調和を観ずることによって心の平安が生まれる。③取り戻した心の平安から、行動する意欲、勇気が生まれてくる。この三点は間違いなく自分で体験されうる功徳だと思う。

ただ、このような「都合のいい時だけの神頼み」や「都合のいい時だけの大調和」を観じ念じたりするのは、いかにも虫が良すぎて良心が疼き、「もう二度と人の批判はいたしません」、「これからはきっと神想観を続けます」と神に、そして自分自身に誓うのでしたが、わたしの場合は、長い間「のど元過ぎれば熱さ忘れる」で来てしまいました。決していい気になっていたわけではなく、そんな自分を情けなく思っていました。

しかし、困った時の神頼みの有難さと、良心の疼きを経験しながら、ある時から続けることができるようになり、まあ、これも困った時の神頼みの功徳の一つかと思っています。


○「神はすべてのすべて
  すべてのものに神ましまして
  われを導き給う」


★写真は「カタクリ」の花

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