シスター・渡辺和子さんはある日、修道院のエレベーターに乗るとき、行く先の「階」のボタンを押した後、無意識に「閉」のボタンを押していたことに気づいたと言います。
そして、階のボタンを押した後、自動的にドアが閉まるまでの時間を測り、そして、たった4秒であることを知り、4秒すら待てなかった自分に気づいたとのこと。
そして、次のように書いておられます。
○つまり、ドアが閉まるまでの4秒ぐらいの時間が待てないでいる自分に気づいたのです。そして、考えさせられました。「4秒すら待てない私」でいいのだろうかと。事の重大さに気付いた私は、その日から、1人で乗っている時は「待つ」決心を立てたのです。この決心は少しずつですが、他の物事も待てる私に変えてゆきました。待っている間に、小さな祈り、例えばアヴェマリアを唱える習慣もつけてくれました。学生たちのため、苦しむ人のため、平和のために祈れるのです。時間の使い方は、いのちの使い方です。待つ時間が祈りの時間となる、このことに気づいて、私は、何か良いことを知ったように嬉しくなりました。 (「心のともしび」の中にある「時を待つ」より)
また、別のところではこのようにも書いておられます。
○私は待つのです。それは、「4秒すら待てない」人間になりたくないからなのです。忙しさに負けて、自分の心を亡ぼし貧しくしないために、せめて1日に2度でもいい、修道院と学校との往復に、自分を「待たせる」ことによって、心にゆとりを持ちたいのです。時間に追われる自分でなく、時間の主人としての自分として、心を落ち着かせたいのです。エレベーターに乗っている間に、アベ・マリアを唱えることもできます。出会う人たちへの笑顔も用意できるのです。豊かな心はお金では買えません。心を豊かにするためには、ほんの数秒でいい、自分が自分を見つめる時間を必要とします。世の中は日に日に便利になっています。そのかげで私たちが失いかけている心の豊かさは、こうした日々の小さな出来事の積み重ねでしか、養われないのではないでしょうか。 (「心のともしび」の中にある「豊かな心を養う」より)
今まで、わたしもせっかちに、そして決して無意識にではなく、意識的に(乗ろうとしている人がいないときですが)、「閉」のボタンを押していました。
しかし、昨日、この素晴らしい一文を読ませていただき、感動を覚えながら、今後、「閉」のボタンを押さず、自動で締まるまで待とうと決心させてもらいました。