A子さんは一歳の時に、顔から火鉢の中に落ち、火傷をし、火傷の跡が残り、生きる希望がなかったという。その影響で、人生を歩み始めてからも潜在意識は真っ暗で、悪いことばかりがやってきて、「苦しみは、こんなにいろいろあるんだと思いました」と語っている。
ある時、生長の家の教えにふれて練成会に参加した。そこで講師の先生から「人間は幸せになるために生まれてきた」と教えられ、救われた気持ちになり、前向きに生きられるようになったという。
しかし、それでも、自分に対する姑さんのいじめは変わらなかったとのこと。そしてA子さんは言う。
「一番つらかったのは、お姑さんの理不尽ないじめでした。最後は泣きながらこらえてこらえて看取ることができたものの、亡くなってから憎しみが一層強くなり、手を合わせることもできず、悶々としていました」とのこと。
それである日、神様に「私は姑さんを赦すことができません」と心の内をぶつけました、と言う。
すると、次の日の朝、まだ意識がはっきりしない頭の中で、何か音が流れているので、耳を傾けると「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」という『奥の細道』の冒頭の言葉だった。それが何度も流れるので、その意味を考えると、「月日というのは旅人のように、今いるようでも、もう二度と戻らない。終わったんだ、と思いました」とのこと。
それからは「共に苦しみを通して、生長した同士のように思え、手が合わせられるようになりました」とのことでした。
これは、最近体験発表で聴いた話ですが、人生という舞台で、縁あって巡り会ったものの、憎くて仕方がなかった。そんな心を持っていてはいかんと思うものの、その憎いと思う心を自分ではどうしようもなかった。それで悶々としながら、その気持ちを祈るような気持で神様にぶつけた。すると「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」という言葉が繰り返し聞こえてきた。それで、それはもう過ぎたことだ。それを通して、互いに生長したんだと知ることができ、姑を拝めるようになったという、本当に心打たれる話でした。