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気の向くままに

山、花、人生を讃える

『不殺生菜食者 2』

2018年02月24日 | 信仰

今日はmikoさんの『不殺生菜食者』の第二弾をアップさせてもらいます。

感動と共に、読むだけでも浄められる心地がして、これを保存しておいてよかったとつくづく思います。イエス・キリストも、釈迦も、もし何も語らなかったとしたら、偉大な教えも、その足跡も何も残らなかった。それと同じ意味で、この投稿文を心から有難く思う次第です。以下『不殺生菜食者 2』です。

私の育った家庭は、どちらかと言えば食というもの(特に肉食)には、まったく関心のない家でした。ですから、子供の頃はハンバーグが大好きでした。しかし、生長の家の教えも知り、の際の動物たちの涙も知る大人になった私は、肉食をすると体に反応が出て戻してしまうようになり、自分の魂が肉食をすることを身体を使って拒否しているのだと感じるようになりました。その頃から、私は肉食を段々と減らすようになり、ハンバーグで言うなら、使用するお肉を、牛から豚へ、豚から鶏へと変え、量もなるべく少量にして豆腐ハンバーグへと移行してきました。そして、肉食をする際は必ず感謝の思いを添えていただくようになりました。すると、体の拒否反応は出なくなっていました。

しかし、その頃の私はまだ『殺生・不殺生』『生命』などについて思いを深く巡らせていたわけではありません。当たり前のように食していた動物たちが、実は涙を流していたのだと。涙を流しながら、私達人間のために犠牲になって肉を捧げてくれているのだと。なんと可哀そうなことだろう・・・、ああ、ゴメンナサイ!そんな思いをさせていたなんて!なんの懺悔もそして感謝の気持ちも抱かずにただ当たり前に食していた私を許してください。これからは、なるべく食することをやめ、食する際は感謝を捧げます・・・。そんな感じで、私の不殺生への道は始まり、続いていくのでした。

そんな中、前回の投稿文章に書きましたように、子供たちの生命に関わる様々な事件が起きるたび、“生命を守りたい”そんな強い気持ちが私の心の中に湧き起こりました。そして、「殺すものは殺される」という法則を考えたとき、友人が私に言った「目の前に来たからと言って、食料として殺された自分の子供の屍肉を食らう母親はいない」という言葉が、ストン!と私の中に入ってきたのでした。

女性であるわたしには母性というものが宿っています。すべての生命の母であると思える女性特有の母性・・・。その言葉は、私のこの母性を大きく揺るがしました。目の前に出されたもの、与えられたものを感謝して食せばいい。私にはそう思うことがもうできなくなりました。

だからと言って『不殺生』が絶対正しいから、すべての人がそうなるべきだと強要する気持ちはありません。私には小学生の子供がおりますが、不殺生菜食の強制はしておりません。自宅では動物性の食材を一切使いませんので自然と採食になりますが、学校給食ではそういうわけにはいきません。いっそのことお弁当を持たせようかとも思いましたが、子供自身が私の姿勢を見て自然と肉食をやめたくなったとき、その時、どうするべきかを考えることにしようと思っています。ただ、給食でお肉やお魚が出たときには、あなたのために命をくださるのだから、必ず「いただきます、ありがとう」と心の中で言ってね、と話しています。好き嫌いのまったくない子供ですが、最近は「お肉嫌だなあ」と言って残すこともあるようです。

ハンバーグ大好きだった私が、不殺生菜食者になるために歩んできた行程を振り返るとき、その時その時に応じたステップがあるように思えます。何も知らず、知らされる機会もなく、ただ当たり前に食していた段階から、感謝を捧げていのちを頂くという段階があり、やがては導かれ大調和の世界を描く要因になっていくのだと・・・。あくまでも、その個人の魂が自然にそう導かれたとき、あるべき形になればいいなと願っております。生長の家を知らない友人などにも、第一のものを第一にしなければ・・・という強い意志のもと、流産児たちへの思いと、生命礼拝・生命尊重からの不殺生菜食への取り組み、私のありのままをお伝えさせていただいております。

すると不思議なもので、だしの取り方がこんな本に載っていただとか、ベジタリアンのいいHPがあるよとか、畑で取れたお野菜を使ってねとか、遠方の友人などはわざわざ手書きの美味しい野菜料理のレシピを郵送してくれたりと、思い思いに協力してくださり、「絶対菜食までは無理かもしれないけど、少しでも減らしていけたらいいな」と言って、できるだけ採食に近づけようと、私に同調してくださる友人たちが増えています。

「またまた、そんな変なことに凝って・・・」と呆れ顔で私に言った実家の母も、次の日には「だしをとるのに安くてたくさん入った干し椎茸があったから買っておいたよ」と、私の行動に否定的なのかと思いきや、なんだかんだ言っても私の一番の善き協力者です。親というものは本当にありがたいものだとしみじみ思いました。

不殺生菜食者という今の私の姿勢が、少しでも良き影響を周囲に及ぼすことができたならと、ただ神様に全托し邁進して参ります。ありがとうございます。

コメント (3)
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