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気の向くままに

山、花、人生を讃える

「自由」

2010年07月24日 | 人生
「あなたは今までの人生で、何を学んだか?」と、もし人に聞かれたら、わたしは即座に「自由」と答えるだろうと思う。

これを学んだのは実に大きかった、と自分でも思う。
これほど自分自身を即効的に「楽」にしてくれたものはありません。

家内に対して自分が思っていた「こうでければならぬ」が解けた時、即座に、自分自身が解放されたように楽になりました。

家内がそれによって変わったかどうかということはぜんぜん関係ありません。
だから、相手に対する「こうでなければならぬ」という縛りは、実は自分自身を縛っていたことが本当によくわかりました。

他に対する「こうでなければならぬ」がほどけたとき、はじめて、自分自身が「自由」に生きる権利を与えられていることが実感としてわかり、その「自由」に神に感謝したくなりました。

おかげで、職場でもこれによって自分自身が楽になり生かされてきたことがたびたびありました。


「相手を自由にしてあげる」


まだまだ序の口程度のものですが、これからも、さらに諸々の事柄に、あるいは子供に、また他の方に、どれだけ、自分の中に潜んでいる「こうでなければならぬ」をなくしていけるか、これは、自分の課題というよりも、楽しみです。

一つ一つほどけていくたびに、さらに自分自身が生長し、大きくなっていくことでしょう。
想像するだけでも、うれしくなってきます。

夢の中で

2010年07月21日 | 人生
(夢の中で)

おい、アゲハ、お前、青虫から変身したんだろう?俺にその変身の仕方を教えろよ。

いいわよ、簡単だから。
「汝の心を肉体より一層高きものに一転せよ」ですよ。

なんだ、それは聖経の言葉じゃないか。

そうよ、不満?

いや、不満じゃないが、それで変身できるのか?

あら、信じてないの?
勿論できますとも。
あなたは、あなたの真の姿はともかく、あなたが思う通りの人間なのよ。だから、一層高き真の姿を見つめれば、その時、あなたは一層高き別の人間になっているのよ。ただ、その後ですぐ俺はダメだと思ったりすれば、その時は、別だけどね。

そう、そう、それが問題なんだよね。どうすれば、その気持ちが持続できる?

う~ん、それは、あなたがその気持ちを持ち続けるしかないわね。

だから、どうすればできる?

自分で決意するんですよ。あなたそれを求めているんでしょ?
だったら、決意してそうしなさいよ。
これはワクワクする冒険よ。
だって、変身したかったら最初から羽根があったんでは変身できないよ。
変身するためには、最初は青虫になって地面を這わなきゃダメよ。
地面を這う虫から、空を舞う蝶になることはとってもワクワクすることよ。

なるほど、おもしろいことを言うじゃないか。

あなた、山が好きなんでしょ。だったら話が早い。
はじめから、誰かに山の頂上にひょいと置かれたら、どうなのさ?ちょっとも嬉しくないでしょ。
やっぱり下から登れば登っただけの楽しさがあるんじゃないの。
空を飛ぶ鳥だって、はじめから飛ベる鳥なんていやしないわ。
初めて空に向かって飛び立つときのあの不安とトキメキ、あの昂揚感があなたに分かるかしら。
あなただって本当はそうなのよ。
人間はそうしたいから、自ら望んでこの世に生まれてきているのよ。
それを忘れてしまっているから、人生は苦だ、なんて言い出すのよ。

じゃあ、今のこのままでいいというのか?

大丈夫よ。「神の子」が「神の子でなくなる」なんてことはできないわ。
そのまま一歩一歩進んで行けば、ちゃんと見えてくるんだから。
それに、青虫だから、まだ麓を歩いているから、「神の子じゃない」なんてこともないわ。
動かない一粒のタネだって生きているって知ったばかりじゃないの。
今、その花を毎日見てるでしょ。

お前は気持ちが暗くなることはないのか?

ないわよ。
だって私たちは「蝶の道」と言って、ある範囲の明るさのところしか飛ばないんだもの。

へー、そうなのか?

そうよ。

ところで、なんとかという蛸が、ワールドカップのドイツの試合をみんな当てたそうだし、決勝戦までも勝敗の行方を当ててしまったそうじゃないか。あれはどうしてだい?

そんなこと私に聞かれたって知らないわよ、蛸に聞いてちょうだいよ。

なんだ、蝶のくせに冷たいじゃないか。

「チュウ、チュウ、チュウ、蛸かいな」の、当てずっぽうが時たま当ったんでしょ。

う~ん、当てずっぽうで的中率100パーセントとは確率が良すぎる気がするんだが、本当に超能力があるんじゃないか?

うらやましい?

いや、うらやましいわけじゃないが、本当にそういう能力があるじゃないかと思うんだが・・・。

それなら、あなただって、それに誰にでもあるわよ。すべては神さま、仏様の示現じゃないの。
それより、さっきの「汝の心を肉体より一層高きものに一転せよ」というのは、わかったのかしら?
どんなときにも、あなたの真の姿は、罪なき、穢れなき、そして、傷つかざる、病まざる、喜び、ときめき、ワクワクし、眩しく輝く「神の子」なのよ。いつも、それを思い出し、忘れないことね。

お前、どこかで立ち読みしたな。

あら、ばれてしまったわね。
まあいいじゃないの、幸せならば。
じゃあ、またね。バイバ~イ。

(目が覚める)

「山頂に達しないでも・・・」

2010年07月16日 | 人生
伊吹山に登って9合目に着いた時のこと、バスで来たらしいおばさんの一人が、下から登って来る登山者たちを見おろしながら仲間の一人に、「あの人たちは何が楽しくてしんどいのに歩いて登るんだろうねえ」言っているのを偶然後ろから耳にしました。
その実感のこもった言い方が可笑しくて,思わず噴き出しそうでした。

家内は結婚前は山登りが大好きだったようで、彼女のアルバムは山の写真が多く、その家内から、よく山登りに行こうと誘われました。が、その頃はわたしも「この暑いのに、何が悲しくて荷物を背負って山登りなんかしなきゃいかんのか。裸になって海で泳いでいた方がよっぽどいい」などと言っていたものです。

また、雨降りや寒い時期にバイクに乗っている人を見ると、いかにも大変そうに見えて、わたしは「もの好きな人がいるもんだなあ」と思っていました。
ところが、自分が(50CCですが)いざ乗るようになると、これが実に楽しいのに驚きました。
寒さものかわ、雨ものかわ、という感じでした。
乗用車だと眺めのいいところがあっても、なかなか立ち止まりにくいものですが、バイクなら、いつでもどこでも、良いところがあればすぐ立ち止まって眺めることができるし、風を切って走っていると、乗り物に乗りながら、そのまま自然と一体となって走っているようなところが何とも言えずいいものだと思いました。
そして、バイクの楽しさを味わいつつ、我ながら照れ臭く思いながら「今まで、もの好きだなんて言ってごめんなさい」と、心の中で謝ったりしました。

春先のこと、わたしが庭で草むしりをしていると、隣の主人が「それ、草生えてるの?」というので「生えてるよ」というと、「そんな小さいもの、もっと大きくなるまでほっておけけばいいのに・・・。大変だねえ」と言いました。
なるほど、隣の主人から見れば「大変」に見えるらしい。
ところが、やっている本人には、これも気分転換になってなかなか楽しいもの。

側には大変そうに見えても、当人には「楽しい」ということはよくあることだと思う。
また、本人にとって昔は大変と思っていたものが、今は楽しくなったということもよくあること。
そして、逆も真なりですね。

以前、「いろどりひかる」さんのブログで、
「以前は女に生まれたことを悔やんでいたが、今は喜べるようになった」という意味のことを書いておられて、大変感動しました。
これは右から左へと言うように簡単なことではないと思いますが、このような話は聞くだけでもこちらの気持ちが鼓舞され、壁のように見えていたものが、越えられそうな気がしてきてうれしいものです。

「喜べるようになる」というのは人間が共通に持っている「願望」ではないかと思う。

生まれたことを喜べるようになりたい。
仕事が「楽しい」と言えるようになりたい。
神想観が「楽しい」と言えるようになりたい。
それから、何にも心配しなくていいようになりたい、とか。

先日、山登りで疲れない登り方という番組を見ましたが、要は、「登りも下りも急がないこと」でした。
人生も同じだなと思いました。気持が「急くのは禁物」ということかなと思いました。
事が成るのに時期があることを信じて、「待つ」ということも大切ではないかと、わたしなどが偉そうなことを言えたものではないですが、振り返ってそう思います。

昨日、テレビを見ていたら、駅員に理由もなく暴力をふるう人が増加しているというニュースがありました。30代、40代が多いらしいですね。なんだかちょっと気の毒な気がしました。心理学者は、この年代が子供を抱え、職場でも一番大変な時期でストレスが多いのだろうと話していました。

『生命の実相』の中には「人間が心配していることは、重要なことの前には吹き飛んでしまう小さなことばかり」という意味のことが書かれていたのを思い出しますが、実際、わたしの経験からしてもその通りだなあ」と実感させられます。
とは言っても、このような達観した気持ちを持ち続けられたら苦労はないと思いますが。

しかし、たとえ心配していることが現実になったとしても、それが現実になったから大変かというとそうでもなく、谷口雅春先生が教えて下さっているように、心配している間は想像して大変そうですが、当事者になってしまうと、たいしたことはなかったということはいくらでもあると思います。
わたしも心配したことのほとんどがそうでした。振り返れば、ずいぶん、無駄な心配をしてきたものだなと思います。

私の自宅は、7年前の年末の昼間、子供の部屋の電気ストーブの過電流が原因で出火して家事になりました。
(わたしは長男にはよく怒りましたので・・・。そして怒らない人になるというのも切実な願望の一つでした)
わたしも家にいたのですが、カーテンに燃え移って天井まで火が上がり、結局消し止めることが出来ずに消防車のお世話になりました。

経験した人でないと実感として分かりにくいと思いますが、わたしは燃え上がる火を見ながら、「すべてが変わる!」という予感に、未知へのときめきを感じていました。

また、その後は家が焼けたことでリセットされたように空っぽになり、軽くなり、それだけでなく、「失ったものは何もない!自分のうちにすべてがある!」という実感も湧いてきて、今は黙阿弥となりましたが、ともかく、ちょっとした悟りの境地にさえなりなりました。

職場の代表で見舞に来てくれた人が、わたしだけならともかく、家族みんなが楽しそうに焼け残った使えそうなものを干したりしていたのを見て、あれには驚いた、ということを後で不思議そうに話してくれました。(念のために言えば、保険は入っていませんでしたよ。)

ただ悲しかったのは、位牌を焦がし、神棚まで焦がしてしまったことが、自分の不徳で本当に申し訳ないことをしたと、それだけが悲しいことでした。


なんだかあらぬ方向に話がそれてきましたが、最近、聖経を読んでいて、
「汝の心を肉体より一層高きものに一転せよ。一層高きものこそ真の汝なり」という言葉が、心に響きます。と同時に、「山頂に達しないでも、麓の一歩一歩にも星の光は射す」の先生の言葉がしみじみ思い出されます。

その部分を調べてみると、次のように書かれていました。

○山頂に達しないでも、麓の一歩一歩にも星の光は射す。どこにいても神を拝することはできるのである。何処にも天国がある。渓川のせせらぎに宿る星の光にも、草の葉末の露に宿る星の光にも天国は宿っている。
                         (『生命の実相』37巻 107ページ)

とありました。

すべての人が心穏やかでいられますように。

有難うございます。合掌

「父の日」のプレゼント

2010年06月21日 | 人生
今朝、息子が「はい、プレゼント」と言って何か手わたすので、「何?」と聞けば扇子という。
わたしが尋ねた「何?」と言うのは、「どういう意味か」ということでしたが、聞いてから「父の日」のプレゼントと気づき、それが「扇子」と言うので、思わず「おっ!」と、喜びの声をあげたのでした。

今まで「母の日」のプレゼントはあっても、「父の日」のプレセントは一度もなく、黙って涙をこぼし続けていたのであります。(涙)
その「父の日」のプレゼントに、欲しいと思いつつ買えなかった扇子と聞けば、思わず「おっ!」となるのも無理はありません。

以前、無理していいのを買ったのはいいのですが、電車の中で居眠りをして扇子を落とし、目が覚めたら目的の駅についていて慌てて降りて、気づけば扇子がない。
次は、万博で買ったものを(これは安物ですが)またどこかで紛失。
さらに、義弟がお土産でくれたものを、またどこかへ置き忘れ。
これでは、いくら欲しくても買う意欲が湧きません。(笑)

包みを開けると、桐箱が出て来て、「上等品」の予感に胸ワクワク。
扇子を取り出して広げてみると、透かしが入っており、以前に自分が気に入って買った物と同色で模様も似ているという、お気に入りのデザインに嬉しさ最高潮。そして、買ったところがまた同じというおまけつき。
いやあ、うれしいなあ。
自分までがこのデザインのような上等になった気分です。(笑)




今日は、シコク嫁様のブログで素晴らしいお話を聞かせていただいて、朝から心の臓が忙しい。
http://blog.goo.ne.jp/hinokagayaki/e/9b699734a189710f0ab8bb46b42791cb?st=0

神さま、有難うございます。
息子よ、有難う。

父は頑張るぞ!

心に残った言葉

2010年06月13日 | 人生
話し、その1
何年か前に手帳を買ったとき、その手帳の中に小さな紙がはさまれていて、その紙にはある言葉が印刷されていました。

その言葉というのは確か、「あなたの心に残った言葉」とか、そのようなテーマで一般から募集して最優秀賞が贈られた言葉でした。

その最優秀作品というのが、
あるとき、お父さんが「もう一巻の終わりだ~」と言ったとき、それを聞いていた小学生の息子が発した言葉でした。
息子はこう言ったそうです。

「お父さん、一巻の終わりなら二巻の始まりだ」

いやあ、素晴らしいですね。わたしもこの話がいっぺんに気に入ってしまいました。


話し、その2
わたしの印象に残っている言葉
娘が小学六年か中一の頃、何か話しているときに言った言葉。

「お母さんは賢いけど、お父さんはバカだ。だけどそれでちょうど良い。二人とも賢かったらわたしが困る」

いやあ、笑ってる場合じゃありませんよねえ。


話し、その3
一番痛快味を感じた言葉。(記憶だから正確ではありませんが)

「神は人間が作ったものだと言う人もいますが、それもそうではありますが、しかし、人間の心に神がなかったらその神さえも作ることができないのです」

はじめて読んだときは特に、「うわあ!凄い!」と思いました。


皆様の心に残った言葉はなんでしょう。
探してみるのも面白いですね。

映画「RAILWAYS」を見て

2010年06月12日 | 人生
先日は一休みというわけで避暑に出かけました。
避暑といっても映画館で、中井貴一主演の「RAILWAYS」でした。
家内が義母に誘いの電話をしたら、前回、「書道ガールズ」を見に行ったときの予告編を見て「楽しみにしていた」とのこと。

内容は、主人公の左脳に偏った人生から右脳的人生への転換を主題にしたような映画で、物語的には、珍しくはないのですが、美しい田舎の風景や人情とが溶け合った、いい映画でした。

谷口雅宣先生はバランスということを説いておられますが、このバランスが普通の会社生活のなかではなかなか難しいですね。なんといっても利益や効率優先の世界で働きつつ、家族を支えているのですからね。そこに会社勤めならではの辛いところもあるのだろうと思います。

夏目漱石が言ったっけ。
「知に走れば角が立つ、情に竿させば流される」、だったかな。

わたしも山へ行き右脳が呼びさまされるたびに、人間性を喪失しているなあということをいつも感じていました。ある意味では、山へ行くことによってバランスが保たれていたのでしょうが、「できればこういう人生から早く抜け出したい」との思いがだんだんに蓄積され、会社を辞めることになったのも、実は自分自身のそのような思いが原動力になったとも言えると思います。

そして夢のような話ですが、こちらからではなく、会社の方から「是非うちへ来てほしい」との電話があって、入社した会社の船がこの映画のローカル列車と同じように50年前に建造された古い古い船でした。建造された当時は18ノットで瀬戸内を走る客船でしたが、今は数ノットでトコトン、トコトンとのんびり湾内だけを走るクラッシック船でした。それがまた良かったですね。
古いだけに大変なところもありましたが、ともかく複雑なシステムもなくいたってシンプルだし、何よりもゆっくりスローで走るところが良かった。そうすると不思議なことに人間までやさしくなるような心地がしました。

そして、60歳になったのを機に船ともサヨナラをして、今は樹木を相手に働かせてもらっうようになりましたが、いつの間にか、自分を重ねつつ映画を見ていました。


さて、いよいよワールドカップがスタートしました。

ニッポン、チャチャチャ!

誓うなかれ

2010年06月11日 | 人生
菅さんが新総理に選ばれてまだ間もないが、間近に迫った参議院選挙と郵政改革法案とどちらを優先すべきか、就任早々難しい判断を迫られていたようです。

つまり、亀井静香郵政担当大臣は郵政改革法案を今国会会期中に成立させたい、そのためには国会の会期延長もやむを得ないと主張し、一方改選を迎える民主党参議院議員は延長すれば選挙が後にずれこみ、資金面で負担がかかるし、また民主党の支持率が上がっているこの時期を逃したくないというわけで、会期延長はすべきでないと主張する。

そして今朝の新聞には、菅総理は参議院選挙を優先して会期延長はしないと結論したらしく、亀井静香大臣は約束違反というわけで、大臣を辞任したとありました。

なんでも菅さんと亀井さんの党首会談の際には、「速やかに郵政改革法案を実現させる」との約束が交わされていたらしく、またその後の記者のインタビューに答えて、管総理はそのことを明言していたとのこと。つまり菅新総理は舌の根も乾かないうちに、約束を翻すことになってしまったのです。

わたしは今朝のこのようなニュースを読みながら、昨年の自分のことを思い出し、かつイエス・キリストの「山上の垂訓」にある、「汝ら誓うなかれ」の言葉を思い出していました。

わたしも昨年のちょうど今頃ですが苦い記憶があります。
「(同僚が退職する時)俺も送別会に出るから連絡してくれ」と、約束していたのです。
軽はずみに言ったわけでなく、相手は北海道に住むのでこれから逢える可能性は少ないし、また務めていた職場も懐かしいだろうからと本当に行こうと思っていたのです。
ところが、新型ウイルスの感染が広がり始めてきました。
ウイルスも自分だけのことならまだしも、人に感染するものだけに余計な気を使わなければならず、それが厄介で、できればこの際、「君子危うきに近寄らず」の気持ちになっていました。

それで「やっぱり誓う勿れだった」と約束したことを後悔し、「行けたら行く」にしとくべきだったと反省しました。(さいわい、ウイルスの広がりもそれほどでもなく、安堵したのですが)

キリストは、「誓うなかれ」の後に、「なんじ、頭髪一筋だに白くし、また黒くし能はねばなり」と続けていますが、いくら誓っても、その後にどんなやむを得ない事情が起きてくるかわからないのですから、やはりできるだけ約束はしないよう気をつけるべきだと思いました。
また反対に、このようなとき、約束が守られるなどと期待しないことを、「神との対話」で教えられました。

その一つ、期待は失望につながり、失望は人間関係を損なうということ。
その二つ、相手との約束を守るため、自分の思いとは違うことをしなければならなくなる。これは、自己に対する裏切りである、ということ
その三つ、約束を守れと相手に強要することは、相手に、自分を裏切るよう強要することと同じであり、
そんな人間関係は長く続かないし、また長い目で見れば自分のためにもならない(出ていったものは自分に戻って来る)ということ。

ざっとこんな感じですが、わたしは、(特に男性はそんな傾向が強いと思いますが)「男の約束」というものを美しいもののように感じていたので、約束が守られなかったりすると腹立たしくなる傾向が強く、このことはとても教えられ勉強になりました。

まあ、そんなわけで、約束はできるだけしない方がいいし、またマニフェストにしろ何にしろ、「約束なんだから守られる」とは期待しない方がいいですね。「約束違反だ」「裏切りだ」などとなったら、自分自身愉快でないし、そんな約束ははじめから無効と思っていた方がいい。そう思った方がよほど自由で楽な気持ちになれます。
キリストの言われたとおり、「「なんじ、頭髪一筋だに白くし、また黒くし能はねばなり」だと思います。
そして、期待するなら、やっぱり自分自身に期待すべきですよね。

今朝の新聞を読みながら、改めてそんな事を思ったことでした。

最後に、
「生命の実相」30巻に「山上の垂訓」の解説があり、この部分(誓うなかれ)の説明が211ページから掲載されていますが、「決して誓わない、と誓うことも誓いである」とあります。
どうぞ、ご注意を。

自分の懐かしい投稿を読んで

2010年06月06日 | 人生
今日、昔自分がある掲示板に投稿したものを探しているときに、同じく自分が投稿した別の記事が目にとまり、それを読んで感動し、懐かしくなりました。

感動したのは本から引用した部分であり、懐かしくなったのは、引用の後に書いている自分の感想の部分です。

引用は「神との対話」からで、長いが下手に省略すると感動がなくなりそうなのでそのまま引用しています。以下、投稿した記事。


≪「神との対話」のある一節≫
おはようございます。
『神との対話』からの引用です。

神:この単純な――内側に平和を求めて見出すという――変化が万人に起これば、すべての戦争はなくなり、世界には永遠の平和がもたらされるだろう。世界平和は個人的な事柄だ!必要なのは環境の変化ではなく、意識を変化させることだ。

ニール:でも、飢えている時にどうして内心の平和を見出せますか?渇いている時に、平和な心でいられますか?屋根もなく濡れそぼって震えているとき、穏やかな気持ちでいられますか?愛する者が理由もなく死にかけているとき、怒りを感じないでいられますか?
あなたのお話はとても詩的ですが、詩は現実的ですか?一切れのパンがないためにやせ衰えて死んでいく子供を抱いたエチオピアの母親に、何か言ってやれますか?中米で、軍隊が村を略奪しようとしたために銃弾を浴びた男には?それに、ブルックリンでギャングに8回もレイプされた女性に、あなたの詩は何と言ってやるんですか?日曜日の朝、テロリストが教会に仕掛けた爆弾で吹き飛ばされたアイルランドの家族6人には?

神:そう聞くのはつらいが、すべては完璧なのだ。完璧さを見抜く努力をしなさい。それがわたしの言っている意識の変化だ。
・・・中略・・・
気持ちをかみしめなさい。泣きたいだけ泣きなさい。笑いたいだけ笑いなさい。自分の真実を誇りにしなさい。だが、すべてを感じつくしたときは、おだやかに、わたしが神であることを知りなさい。
言い換えれば、もっとも大きな悲劇のさなかに、プロセスの栄光を見なさい。胸を撃ち抜かれて死ぬ時ですら、またギャングにレイプされているときですら。
そんなことは不可能だと思うかもしれない。
だが、神の意識の中に入れば、それができる。もちろん、そうしなければならないというのではない。
それは、あなたがその時をどう体験したいかによる。
大きな悲劇にあった時の課題は、どうやって心を鎮め、魂の奥深くへ入っていくかだ。
もうコントロールできないという時、あなたがたは自動的にそうなる。
車が橋から墜落する事故にあった人の話を聞いたことはないか? あるいは、銃を突き付けられた人の話は? 溺れかけた人の話は? 時の歩みが遅くなり、不思議な静けさに包まれて、恐怖をまったく感じなかった、という人が多いはずだ。
「恐れるな、わたしがあなたと共にある」というのが、悲劇に直面した人に語られねばならない言葉だ。
最も暗い時に、わたしはあなたの光となるだろう。闇の中で、わたしはあなたの慰めとなるだろう。
最も困難な試練の時、わたしはあなたの力となるだろう。
だから、信じなさい! わたしはあなたの羊飼いだから。
わたしはあなたを緑の牧場にくつろがせ、憩いの水ぎわに導くだろう。
たとえ、死の影の谷を歩くときも、災いを恐れるな。
わたしが、あなたと共にあるからだ。・・・
以下、略

この後、ニールは「素晴らしいですね。本当に素晴らしい。世界が分かってくれればいいと思います」と言っているのですが、自分が闇のさなかにいる時、この神の言葉は慰めとなり、癒しとなってくれるだろうか。自分の心が平穏であるときは、この神の言葉を受け入れ、感動し癒しともなるかもしれないが、そうでない時には、目の前に迫る闇の前には馬耳東風になりそうである。
むしろ、著者ニールの神に詰め寄るような問いかけに力を与えられる気がした。
何度も何度も問いかけたくなるような問いかけで、よくぞ問いかけてくれたとニールさんに心から感謝したいと思う。勿論この重要な問いかけに答えて下さっている神にも感謝したい。


まあ、こんな投稿でした。

実はこれを書いたのは、30年勤めた会社を辞めたくなっていた頃で、なんで自分がこんな目に!という気持ちでいたので、この神さまの言葉よりも、むしろニールの詰め寄るような神への問いかけに慰められていたのでした。

で、これを読んで、その頃のことが懐かしくなりました。
今はこんな事もあったことが、人生をより味わい深くしてくれて、良かったなあと思います。

まあ、30年勤めた会社をこのように辞めるというのはとても無念で悔しいことだし、辞めれば経済的不安もあって、思うほど辞めるというのは簡単なことじゃないですね。
でも、今はそんな不安は何処へ行ったのか、楽しく生きているわけですね。
そうして、この神様の答えておられるところを読みながら、感動させられたのでした。

別れ

2010年06月04日 | 人生
フーテンの寅さんこと車寅次郎は、失恋してはいつも黙って去っていく。
そして、遠い旅の空から相手の幸せを祈っているのである。

わたしは母の死に目にも、父の死に目にも会えなかった。
母親は他界した瞬間、北海道にいたわたしにはるばるお別れに来てくれたようだが、父の場合はその形跡はなかった。

男は、別れのあいさつなどというものが照れくさいのかもしれない。
だから去る時がきたら、黙って去っていくのかもしれない。

あるとき、何の話をしていた時だったか、家内に「神との対話」に載っていたこんな話をした。
「人間は死を不幸なことだと思っている。だが、この身体ではもう生長は得られないと判断した魂は肉体を去ろうと決意する。そうしたとき、愛する家族は、そんな弱気なことは言わないで。またきっと良くなるわと励まそうとする。そうした家族の思いは、去ることを決意した魂にとっては負担である。だから、誰もいない時に静かに黙って去って行くのである」と。

すると、家内は言った。
「それでわかった!毎日母も私も面会に行っていたのに、どうしてよりによって、一人の時に急に逝ってしまったのかと思っていたけど、なるほど、それでわかった!」と。

男は何も言わず、黙って去るのである。
そして、寅さんのように遠い空から、あるいは近くで見守り続けているのかもしれない。

もちろん、わたしはできれば「有難う」と言って去りたいと思っている。
しかし、泣かれるのはやっぱり嫌だ。
あるいは、自分の方こそ泣きそうだったら、そんな時にもやっぱり黙って去るかもしれない。

そんな時には、一人にっこり笑って去って行ったんだと思ってもらいたいものだと思う。

困った時の神頼み

2010年05月19日 | 人生
「困った時の神頼み」という言葉は、あまり良い意味では使われない。

しかし、本当は困ったときほど神頼みをするべきなのである。
何故なら、困ったときほど「わたしのもとへいらっしゃい」という神様からの呼びかけであるからだし、
また自分にとっても、困ったときほど真剣になれるからである。

こういうのを「碎啄同時」と言われる。
雛が卵から出る時期が熟したとき、親鳥はそれを察知して外から卵をつつき、同時に雛も内から卵の外に出ようとするのである。

だから、こんな場合、祈りの効果は通常に増して大きい。

人間は順調に行っている時には、とかく神には振り向かないものである。
また自分で何とかできると思っている間も、自分で何とかしようと頑張って、やはり神が視野には入ってこない。
だから困ったときほど、心を神に振り向けられるチャンスだし、「困ったときの神頼み」はこのチャンスを生かすことになるのである。

これは信仰のあるなしにかかわりない。
神は誰にでも答えてくださるのである。
問題は人間の側にあるのだが、困ったときには真剣になれる、自分という我を捨てられる。完全に棄てられなくても気にすることはない。ともかく心を神に振り向け、「神様助けてください。良いように導きください」と祈り、全託するのである。
すべてはそこから始まり、そこから道は開かれるのである。

「困った時の神頼み」を決して笑ってはいけない。
困ったときこそ、窮地に陥ったときこそ、神様がいっそう強く「いらっしゃい」と呼びかけていられるのであり、また、無意識にせよ、自分自身が(魂)がそれを求めている時であるから、必ず道は開かれてくるのである。

今、困っている人、窮地に陥っている人、
心の中で、「神様助けてください。良いようにお導きください」と叫んでみてください。
それだけでも、きっと何かが違ってくるはずだと思います。

月はわたしたちが見るからそこにあるのか? ②

2010年05月14日 | 人生

手元にある『量子論を楽しむ本』(理学博士・佐藤勝彦)には、量子論の導き出した自然観を紹介して、次ように書かれています。

○私たちはあまり疑うことなく、「客観的な事実」というものが存在することを信じています。古典物理学でも、自然界のあらゆる事物は私たち人間と無関係に存在していて、私たちはその様子を客観的に観測できるものだと考えていました。でも、量子論はそうした客観的事実の存在を否定しました。自然は観測によって状態がはじめて決まるものであり、誰も観測していない時にはすべては決まっていない。確定した事実は何一つ存在しないというのです。

また、次のようにも書かれています。

○物と心、自然と人間などを分けて取り扱うのが二元論であり、これらを不可分のものとして取り扱うのが一元論です。客観的事実の存在を否定した量子論は、自然と観測者を分けて考える二元論的な世界観を退け、観測対象である自然と観測する私たちとを一つのセットとして考える、一元論的な自然観を示すのです。

というように、「観測対象である自然と観測する私たちとを一つのセットとして考える」と書かれています。つまり、「物心一如」を説いているわけですが、生長の家では立教のはじめから、谷口雅春先生が「自然は外に対立的に存在するのではなく、自分の内にある」、あるいは「観ることは創ることだ」と教えて下さっているので、なにも驚くには当たらないかもしれません。しかし、ここに引用したのは、一般向けにやさしく書かれているものの、まぎれもなく物理学を紹介した本ですから、ちょっと驚きます。

私たちが学校で学ぶ物理はいわゆるニュートン力学で、量子論に対して古典物理学と呼ばれるそうですが、こういう自然観を導き出した量子論があることも若いうちに教えておくべきだとつくづく思います。そうであれば科学信仰の人にも、仏教の「三界は唯心の所現」の教えや、またイエス・キリストの数々の奇跡も、科学の世界に反するものでなく、でたらめな空理空論でもないことが納得されやすいと思います。

量子論というと、あまり私たちには身近でないように思えますが、このように自然観の変革を促したばかりか、私たちの生活をも大きく変えてきました。いろいろなエレクトロニクス製品、携帯電話やパソコンなどは量子論の産物だし、大きくは宇宙の始まり、星々の生成の過程などの研究にも大きく貢献しています。

しかし、量子論といえどもまだ完成された理論というわけではなく、一つのことが分かれば、また新たな疑問が出てくるという具合で、そこからいろいろな世界観が生まれ(多世界解釈など)、ますます神秘の様相を帯びてきている感があります。

さて、前回の記事にも書きましましたが、アインシュタインは、そのような量子論の自然観に納得できず、量子論発展の親であるニールス・ボーアと議論を戦わし、その論争は興味深いものがあるのですが、最後はニールス・ボーアに軍配が上がったとのこと。
(アインシュタインの指摘した疑問に対して、ニール・スボーアが会心の答えを見つけ出し、アインシュタインはそれに反論できなかった。)
しかし、それでも、アインシュタインは「神様が未来を予測できず、サイコロを振ってAが出た、Bが出たなんてことは、納得できない。私たちが見ても見なくても、変わらない真実存在するものがあるはずだ」というので、最後まで量子論に懐疑的だったとのこと。

さて、本当はいったいどうなのでしょうか。
私たちが見るから月はそこにあるのでしょうか。
それとも、私たちが見なくても月はそこにあるのでしょうか。

生長の家を信仰するものとして、このアインシュタインの発した疑問についてどう考えたらよいのか大いに興味があるところですが、坂本竜馬のような歴史の一方で、このような科学世界での歴史物語があることにもワクワクを覚えずにはいられません。


月はわたしたちが見るからそこにあるのか?

2010年05月10日 | 人生

ミクロの物質についての物理学を量子論とか、量子力学といわれますが、1920年頃からその方面の研究が急速に進みました。

そして、それ以前の物理学は古典物理学といわれますが、その古典物理学では「見る」「観測する」ということを、重要視されていませんでした。

ところが電子などのミクロの物質の研究が進むにつれて、「見る」「観測する」という行為が無視できないことがわかってきました。

例えば1リットル水の温度を計測しようとして温度計を差し込むとき、水と温度計の温度差によって水の温度に与える影響はほんの微々たるもので無視できるものですが、ごくわずかな水の中にその温度計を差し込めば、その影響は無視できなくなってきます。
これと同じように、電子のような極微の世界の物質を観測しようと光を当てると、光の粒が電子に当たって、その運動の方向や速度などの運動量が変わってしまって、観測された電子は、観測前の電子とは違うものになってしまうのです。

しかし、これだけならまだわかりやすい話ですが、電子のようなミクロの存在は研究が進むにつれて、いろいろと常識を覆す、理解しにくい不思議な性質を持っていることが分かってきたのです。

例えばその一つ、ある瞬間における電子はどこにいるかというに、観測前の電子(電子を例として)は、「ここ」というようにある一点には決まっていなくて、A点には50パーセント、B点には30パーセント、C点には20パーセントという具合に、雲のように確率的に広がっているというのです。だから、ある一点の「ここ」にいるとは決められない。観測したとき、その確率的な広がりをもったものが一点に収縮して「ここ」というように限定された姿で観測されるのだそうです。

つまり、観測前はある広がりを持った「あいまい」な状態なのだそうで、「ここ」というようには決められない。観測したとき、そのあいまいさの中から、ある一つの状態を取り出して、「ここ」というように決定されるというわけです。

量子論以前のニュートン力学、あるいは私たちが普通に認識している世界では、例えば江川の投げたボールが、何秒後にどの位置でどの速さかは、答えは一つであって、観測する、しないに関わりのないことでした。観測して1秒後に140キロの速さを持っていたなら、それは観測前でも140キロだったに違いない。ボールの位置でも同じことです。このように、人が観測して見たものは観測前も同じであるという、いわば決定論として自然を見ていました。

しかし、量子論は従来のそんな常識を覆してしまって、物理学者たちを驚かせました。
繰り返しになりますが、量子論では、観測される前の自然はその状態に幅(広がり)を持っていて、一つの状態には決まっていない。「あいまい」であるというのです。どうしてかはわからないが、ともかく観測前の本来の姿はそうなっているというのです。そして、そのあいまいな状態の中から観測ということによって、ある一つの状態に決定されるというわけです。

このあたりのことを谷口雅春先生は、測定だけでなく心によっても変化するということを、『真理』入門篇の中で、次のように紹介しておられます。

○「測定されるもの」は、「測定するもの」に影響せられて、「見よう」とすると、「見られるもの」は、速度や位置や性質を変えるということが分かって来たのであります。最初は電子の位置や速度が測定する物質的方法やその測る過程で変化することが分かったのですが、その後、測定する人の心によって電子のような微視的存在は、その位置や運動の方向に変化をきたす事がわかりました。従って、電子の集合によって成り立っている物質の元素的性質は、人間の心によって変化するものだということが科学的に実証されたのであります。(『真理』入門編、240頁)

これは谷口雅春先生だけではなく、「神との対話」シリーズの「明日の神」という本にも次のように書かれています。

○量子物理学で言われる通り・・・観察されるもので観察者の影響を受けないものはいっさいありません。言い換えれば、創造者と被創造物は一つで、相互に創造しあっている。

また、同様のことがインド生まれの医学博士、ディーパップ・チョプラという人の『ゆだねるということ』という本の中にも書かれていました。

ただし、後に紹介した二つの本は最近の新しい本ですが、谷口雅春先生の『真理』入門篇は初版が昭和29年とあり、「谷口先生は、もうこんな早い時期にこのようなことまで書いておられたんだなあ」と驚きました。

さて、アインシュタインは、そのような量子論の自然観に対して、Aに50パーセント、Bに30パーセントなんていうような自然はそんな不確かなものではないはずだ、というので「神はサイコロ遊びを好まない」という、有名な言葉を残しました。

そして、次のようにも言っていたそうです。
○量子論の言い分が正しいのであれば、月は我々が「見た」からそこにあり、我々が見ていない時にはそこにはないことになる。これは絶対に間違っていて、我々が見ていない時にも、月は変わらずに同じ場所にあるはずだ。(『量子論を楽しむ本』佐藤勝彦より)

と。

いやあ、難しいですねえ。でも、興味をそそられますよね。
皆さんは、このアインシュタインの投げかけた疑問を見られてどう思われますか?
月は私たち人間が「見た」からそこにあるのでしょうか?見なかったら、そこにはないのでしょうか?
それとも・・・・?


どうしてこんな自分の分に過ぎた難しいことを書きたくなったかというと、私自身、このアインシュタインの投げかけた疑問にどう答えたらよいのかわからず、興味津々だったのですが、先日、宇治へ研鑽会に行ったとき、テキストになっていた谷口雅春先生の『善と福との実現』をバスの中で読んでいたとき、ちょうどその答えになる、詳しい哲学的思索が書かれていたので、夢中になって読んだのでした。
(以前にも読んでいたのですが、まるで記憶がありませんでした。253頁から書かれているので、興味のある方はあらためて読んでみてください)
それで、この難しい、そして興味ある一連のことを、ここに来て下さる人にも読んでいただきながら、自分でもこの機会に簡単に整理しておきたいと思って書き始めた次第でした。

長くてあいまいな、わかりにくい文章を最後まで読んでいただき、有難うございました。


出来事は出来事、それだけ。

2010年04月16日 | 人生
○苦しみは出来事とは何の関係もない。出来事に対する反応の中にあるだけだ。出来事はただ起こっているだけだ。それをあなたがどう感じるかは、また別の問題だ。

これは、「神との対話」の中にあった一節ですが、わたしはこれによって、それまでの自分と比べて、ずいぶん気持ちが楽になりました。具体的な体験談があるわけではありませんが、ただ、肩の荷を下ろしたように楽になりました。

意識していませんでしたが、それまでは出来事と気持ちが一つになっていて、出来事の一つ一つに気持ちが左右されたり、引きづられたり、その度合いが大きかったのでしょう。それからは、以前ほどには出来事に左右されず、出来事は出来事として距離を置いて眺められるようになり、それだけでずいぶん楽になりました。


話は変わりますが、シルバーの仕事が4日続きました。来週も毎日。
4月からは仕事がないと聞いていたのに、うれしい誤算です。
仕事がなくても、毎日、家で何かの仕事をしているのですが、やはり家で気ままにしているのと違って、「仕事をした」という満足感があって、気持ちがいい。身体は疲れていても、気持ちが喜んでいるのがよくわかる。家に帰ってからも、まだ日が明るいので、あれやこれやと1時間ほど仕事をしています。
それから飲むコーヒーのうまいこと!

思えば職場にいる時は、「時間外労働」なんて変なものがあるし、もろもろの制約もあって、「ただ、働く」ということは、なかなか難しいことだった。しかし、現役時代は、これもひとつの訓練というものかもしれませんね。今はこうして体を動かし、のびのびと働けて気持ちが良い。


また話が変わりますが、今朝、家内が「これでどうお?」と聞きながら、夏のグリーン・カーテン用のプランターや鉢を並べて見せてくれました。
そろそろ、何を植えるか考えなければいけない時期に来ましたが、今年の夏は、はたしてどんなグリー・カーテンができているだろうか。これも楽しみなことです。

こんな風にできたらいいなあ。
(終わりかけですが、去年の9月に木曽三川公園で撮ったもの)



「神様が恋人だ」と言えるように

2009年07月17日 | 人生
昔、練成会で、
東京オリンピックが開催されたとき、アフリカのある選手が、水道の蛇口をひねるときれいな水が出てくるのに驚いて、こんな便利なものがあるならぜひ自分の国に持って帰りたいと思い、蛇口を指さし、これはどこへ行けば買えるのかと、ホテルマンに聞いたという話を聞きました。

このアフリカの選手はあまりの便利さに驚いて、水源があって、そこから流れてくるものだとは考えなかったのでしょうね。

わたしたちも、本当は生命の水源につながっていているのですが、それを知らずに、自分はこれだけの力しかないと自己限定していると、せっかくの豊かな供給に栓をしてしまうことになる。

というわけで、徳久先生は続いて次のような話をされました。

財布の中に奥さんが5万円入れてくれても、自分がそれを知らずに1万円しか入ってないと思っていたら、1万円の買い物しか出きませんね・・・。

なるほど、自己限定とはどんなことか、わかりやすい話だと思う。
人生は、皮を脱ぐように自己限定を取り去っていく過程と言えるかもしれない。
また逆に、自己が生命の水源地とつながっていることを思い出していく過程かもしれない。

片栗粉が透明になる瞬間のように、自己の生命と本源とのつながりを知るときはきっと来るだろう。
しかし、この世で生活していて、目に見えないものに関心を持ち続けることはそれほど容易ではない。
だいたい、あんなに惚れあっていると思えた恋人同士だって、1年も離れていたら、忘れられてしまうくらいだから、人間というのは移り気なものだと思う。

神様は、どうして人間をこんなに移り気におつくりになったのだろう。
神様は、きっと意地悪なのかもしれない。

いやいや、移り気ということは、それだけ自由が認められているということで喜ぶべきことかもしれない。幹細胞のように、胃になろうと、腸になろうと、心臓になろうと融通が利くということだから、これは喜ぶべき神様からのプレゼントと言ったほうがいいのかもしれない。

神が支配者であるなら、きっと、神に関心を持ち続けることしか知らないロボットのような人間になっていただろう。移り気ということは、ある時は「神様、神様」とおねだりし、あるときは、1年も2年も、神様なんてすっかり忘れてしまうこともできるということだ。
それでも、神様が「薄情な奴だ」などとおっしゃらないで、「いつでも戻っておいで」とおっしゃるなら、実に有難いことだと思う。

こんな神様だからこそ、やっぱり関心を持たずにはいられない。
そして、いつもつながっていたいと思う。
「神様が恋人だ」と言えるように。

納得です。

2009年07月02日 | 人生
○神様が幸せに出来るんだったら、なんでこんなにたくさんの人々が苦しまなければならないの?

これは、神様に、ぜひとも聞きたい質問ですね。

「神との対話」の著者も、同じような質問をしていました。
「どうして、世界はこんな状態なのか?どうして神は放置しておくのか?」

その長い、いろいろな対話の中から、記憶をたどりながら拾い集めて、思い出すままに列挙してみました。

●あなたがたはわたしに似せて創られた。

●あなたがたの本質は自由であり、愛である。あなたがたは、わたしが与えた創造の道具(思考、言葉、行為)を使って、あなたがたの世界を創造する。実際、あなたがたは意識的、無意識的にかかわらず、その道具を使って、それぞれが自分の世界を創造し、また一人一人の思いが集合して広い世界の在り様を創造している。
社会のすべてはあなたがたの自画像である。あなたがたが今の世界を創造しているのだから。

●わたしはあなたがたが創造したものを見ているだけで、良いだの悪いだのと価値判断したりはしない。
また、ああせよ、こうせよと指図もしない。
わたしはあなたがたが望むものを創造できるようにと力を貸すだけだ。

●世界には、あなたが言うように確かに不利な人はいる。だが、魂の面から言えば不利な人はいない。
誰もが、自分の魂の生長のために、それぞれに適した環境を選んでいる。
その不利な環境や状況にいる人を、あなたが助けたいと思うなら、助けようとすることもできる。

●世界がこんな状態であるのは、あなたがたが創造したからだ。
また、あなたがたが今の世界に満足しているからだ。
食べるものもなく、毎日たくさんの幼子が母親の腕の中で死んでいくというのに、あなたがたは意に介さない。
見て見ぬふりをしている。
地球に食料が欠乏しているわけではない。あなた方の国(ここではアメリカ)は、一国を養って余りあるほどの食料を毎日捨てている。また、あなたがたに、今の世界を変える力がないわけではない。
力はあるのに、その意志がないだけだ。

●あなたがたは、今の生活を持続させるために、毎日たくさんの森林を伐採している。
それであなたがたの息子たちがどうなろうとお構いなしだ。そうだろ?
われわれは自分の暮らしを守るために、一生懸命頑張っただけだ。そうだろ?

●わたしは、いまだかつて間違いは犯していない。わたしの創ったシステムは完璧に作動している。



以上ですが、
「あなたがたは見て見ぬふりをしている」

これには、正直びっくりしました。

会社を早く辞めたかったのは自分がもう働きたくないという気持ちもあったけど、これを読んだ影響もあったと思う。何かすることはないか、何かしたい、という気持ちがありました。

しかし、ごらんのとおりですね。どこかに適当なパートはないかなと探し始めました。
だからと言って、この結果を嘆いたりしているわけではありません。
何が待ってくれているかは辞めてみなければ分からないですからね。
辞めただけでもわたしは満足しています。
そして、結果を確かめることができて、納得しています。


蓮華蔵世界の象徴「蓮の花」