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社会を作る「実力」の時代

2008年11月26日 | 社会

社会生活を営む上で、地位や肩書きは重要なことでありながらも、それが全てではありません。とくに時代の転換期というのは、年齢や実績、それに伴う地位や肩書きの重要性が低下し、それらとは無関係の「実力」が物をいう時代であるとも言えます。

ここで「実力」という言葉の意味について、きちんと定義しておきたいと思います。ここで言う「実力」とは、これからの時代を創造していく力です。もう少し、分解して考えるならば「ビジョン」と「実行力」ということになるかもしれません。それは、けっして過去を作り上げてきた力ではなく、過去を踏まえた上で未来を作り上げていく力です。そしてまた、それは潜在的なものであり、可視化させることが極めて難しいものでもあります。それが故に、なかなか認められるものではなく、過去を作り上げてきた力を可視化させた地位や肩書きとは、無関係にならざるを得ません。この点が、非常に重要なポイントです。

こうした意味での「実力ある人間」が、地位や肩書きを手にしている場合、社会は力強く前に進んでいきます。地位や肩書きは、社会を大きく変えていくためのツールであり、武器です。それらが「実力ある人間」に委ねられていれば、社会はその者の意思に従って、大きく前進していくことになります。逆に、閉塞感がある社会というのは、全体として、地位や肩書きと実力のバランスが不釣合いの状態であると言えるでしょう。

もちろん、地位や肩書きのある方々が、一様に実力が欠如しているといった不釣合いばかりではありません。それ相応の釣り合いがとれている方々もいらっしゃいます。したがって、私がある程度の地位や肩書きがある方々とお会いするときには、私なりに、彼らに時代を変えられる実力があるのか、次の時代を切り拓ける力を秘めているのかを測っています。

そして、その測定結果について、現時点における私の感想を述べるならば、やはり時代の傾向を反映しており、ほとんどの方々にその実力はないと思われます。非常に残念なことですが、大多数の地位や肩書きある方々は、それを築くまでに得た成功体験が邪魔をして、新しい時代における問題の本質や解決策を見極めらない状態にあるようです。

「これは誰が言っているのですか?」

私が、ひとつの解決策を示したときに、こんな返答をされる方がいらっしゃいます。「誰が言っているのか?」という質問は、自分の頭で問題を考えたり、本質を見極めたりする実力がなく、その判断をどういう地位や肩書きのある人が言っているのかに委ねていることを意味しています。「誰が言っているのか?」という質問は、私にとって驚愕するほどの愚問なのです。最も正確に答えるとするならば、目の前にいる「私が言っている」ということになるでしょう。しかしもちろん、そういう質問をされる方にとって、「私が言っています」などというのは、答えになりません。

もしかすると、こういう質問をされる方は、その質問が持つ重大な意味に気付かれていないのかもしれません。しかし、その質問が持つ意味は、明らかに「私は自分の頭で考えていません」という告白なのです。自らの実力不足を吐露してしまっているに等しい発言を平然としてしまう方々に、もはや次の時代を担うことなどできるはずがありません。

地位や肩書きは、分かりやすいものです。自分の力で考えずとも、地位や肩書きがある人の発言ということで、その発言自体に、何かしらの効力があるような錯覚に陥ってしまうことは、ある意味で仕方のないことだろうと思います。実際に、そうした発言をされる地位や肩書きのある方々が、「実力がある人」であれば、それは確かに効力があるとみるべきです。

しかし、冒頭に述べたように、時代の転換期たる現在において、過去の積み重ねの結果を「実力」と定義しないとするならば、「実力がない人」のみならず、「実力」とは何たるかを見極められないで軽はずみな言動をとってしまう人も、やはり「実力のない人間」になってしまいます。そういう人は、それに見合うように地位や肩書きを返上して、時代の表舞台から退出するほかなくなるでしょう。

逆に、地位や肩書きを備えた「実力がある人」は、表舞台に立ち続けることができます。その理由の説明には、いくつかの仕方がありますが、そのうちのひとつが、地位や肩書きを備えた「実力がある人」は、「苦労している人」だからです。

「実力がある人」が、地位や肩書きを手に入れて、社会から認められるまでには、非常に大変な苦労をしなければなりません。このことは極めて重要で、苦労をしている人というのは、その経験があるからこそ、安易に他人を否定したりせず、謙虚に新しい人々の言に耳を傾け、次の時代を共に作り上げていくことができるのです。この「次の時代を共に作り上げていくことができる」という点で、その人は地位や肩書きを備えた「実力がある人」と言うことができます。

しかし、既述のように、そうした地位や肩書きを備えた「実力がある人」は、残念ながら極めて少数になってしまっているのではないかと思えてなりません。もちろん、地位や肩書きばかりで、本質を見極める能力のない「実力のない人々」が、増えてしまっているというのは、社会の状況を鑑みれば、ある意味当然のことだろうとも思います。

そうした「実力のない人々」には、これからの社会において、一旦、表舞台から退出していただくことになるでしょう。しかし、大切なことは、けっしてそれで終わりでもないということです。今一度、苦労し直すことで、自らの過ちや驕りに気付き、あらためて新しい時代に求められる「実力」を身につけたうえで、表舞台に復帰することはできるはずです。

歴史は繰り返します。失敗を成功に繋げ、成功しては失敗するという循環は巡り続けるのです。機会はオープンであり、成功のあとに失敗をし、そこからさらに成功を目指せるかどうかは本人次第です。少々気が早いですが、地位や肩書きばかりで「実力のない人々」には、私から今のうちにエールを送っておきたいと思います。

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