常識について思うこと

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生き方の裏にある死に方

2008年12月29日 | 宗教

生き方を決めるとは、突き詰めれば死に方を決めるということです。どのように生きるかは、生きている人間にとって、最も重要な問題だと言っても過言ではないでしょう。人は誰しも、どのように生きるべきかについて、いろいろと思いを巡らせているはずです。

そのなかで、究極的に生き方を決めるということは、それさえできれば死んでもいいと思えるものを見つけるということであり、これを換言すると、死に方を決めるということにもなるのです。

ただ、自分の生き方を決めるときに、そこまでイメージしていない人もいるでしょう。どのように死ぬべきかなど、なかなか考えにくいことなのかもしれません。私自身、そうした死に方をイメージできないまま、定めている生き方について、否定するつもりは毛頭ありません。ただ、そのように定めている生き方は、所詮「繋ぎ」に過ぎないということだけは、申し述べておきたいと思います。生命に終わりがあるのは必然であり、人生というのは、自分の死に場所を求めた旅であると言うこともできるわけです。

そうした意味で、充実した人生を送るためにも、人生の早い段階で、究極的な生き方を定め、それに伴う死に方を決めておくというのは、けっして悪いことではないように思います。

ところで、少々別の話になるかもしれませんが、私はイエス・キリストという人は、それなりに自分の死に方を選ぶことができた人ではないかと考えています。人は言葉を通じて、コミュニケーションを取るため、言葉の意味で、物事を理解しようとしますが、彼の場合には、その言葉以上に生き方(死に方)を通じて、私たちに強烈なメッセージを残してくれているように思うのです。

そのメッセージとは、「他者を傷つけぬためには、自分の死をも受け入れる」というものです。この自己犠牲の精神こそが、彼がその生き方(死に方)を通じて、真に伝えたかったものだと考えます。この自己犠牲の精神は、やもすると異教徒を殺すための殉教と履き違えられる等の悪用がされたりするようですが、彼の真意を量るならば、それらの行為は全くの的外れであると思えてなりません。

彼が残したメッセージには、「他者のために自らを犠牲にする愛」という側面があることは明白です。

彼の死後、彼の名前を関した宗教が誕生し、長らく世界に多大な影響を及ぼしてきました。私は個人的に、世界が全く新しい価値観を求める現代において、その宗教が、今後どのように振舞えるのかについて、大いに注目していきたいと思っています。

イエスは他者への愛を表現するために、自らの命を捧げるという自己犠牲の行為に及びました。その彼の名前を冠した宗教が、世界への愛を表現するために、自らの宗教というかたちを否定し、それを消滅させるという自己犠牲までできるものなのかという点が、ここでの注目すべきポイントです。

生き方ばかりを一方的に追求するのではなく、あるべき死に方についても、きちんと見つけることが、その存在理由を高めることになるのです。複雑そうに見えるけれども、こんな単純明快なことが分からぬほど、人間は愚かではないと思います。これからが楽しみです。

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