子供たちには、二種類の泣き方があります。
ひとつは、一所懸命に頑張ったにもかかわらず、それがうまくいかずに、悔しさや悲しさを堪えきれずに泣くというものです。この場合、親を含む大人たちは、子供を大いに元気付けてやり、また泣くに至るまでの過程で、懸命に堪えようとしたことを褒めてやるべきではないかと思います。子供たちは、こうした経験を通じて、心が折れることなく、親や大人たちが理解者であることに勇気を得て、引き続き懸命に生きようとするでしょう。
もうひとつの泣き方は、大人たちにアピールするためのものです。これは、大人たちに慰められることに味を占めて、堪えたりやり切ったりすることができるにもかかわらず、大人の関心を惹くために取る行動です。この場合、子供が泣いているのは、単なる甘えに過ぎないため、逆に突き放してやらないと、子供たちは懸命に生きていくことをしなくなります。
大人たち、特に親たちが注意をしなければいけないのは、この二つをきちんと見分けることです。これを見誤って、大人たちが逆の行動を取ってしまうと、子供たちは、自らの人格をおかしな方向へと歪めてしまいます。
ところで、これらの泣き方はよく見ていれば、きちんと見分けがつくものです。子供たちの行動を注視することで、本来、子供ができる事、できない事は見分けがつきますし、その尺度を持って泣いている子供が、なぜ泣いているかを判断することは、十分に可能なのです。
そして実は、こうしたことは子供に限らず、今の人類全体についても言えることです。
人類の長い歴史のなかで、何かにすがらなくては生きていけないという時期があったことは間違いないでしょう。一所懸命にやってもうまくいかず、その現実に打ちひしがれ絶望し、立ち尽くせざるを得ない時代があったのだろうと思います。
人類のそうした歴史のなかで、大きな役割を果たしてきたのが宗教です。宗教には、諸々の弊害があることも否定できませんが、人類に対して、必要な機能を提供してきたことも事実でしょう。必死で生きようとしているにもかかわらず、現実がそれを許さないという状況があるなかで、多くの人々を優しく包み込み、救ってきたのが宗教であると言えます。
しかし、人類が何かに頼って生きていける時代は終わりつつあります。自立が求められてくるのです。とくに地球規模の問題を抱え、人類の一挙手一投足が、自らの未来のみならず、地球上のあらゆる生命の命運をも左右するような現代にあって、人類の自立は単なる憶測ではなく、時代の必然とも言えます(「外れない補助輪と外す努力」参照)。
これまでの人類は、宗教という便利な救済手段があるが故に、その多くが、宗教に依存した生き方をしてきました。しかし、実際にはそれから離れて、生きていける人々もたくさんいるのです。むしろ、宗教による救済は、人類全体における甘えの構造を固定化させるという弊害すら、生み出し得る状況にあります。それは、人類の自立を阻みます。
私が見る限り、既に人類は、宗教に頼らずとも生きていくだけの力を持っています。
やればできるのに、ただ泣いているという子供に対して、救いの手が差し伸べられることはありませんし、それが許されてもなりません。ただ泣いているだけでは始まらないことに気付いた子供は、泣くことを止めて、やってみようと決意することになるはずです。
実際にはできるにもかかわらず、挑戦する前から「絶対にできない」と決め付けている人々にも、いずれ「やってみよう」と思わざるを得ない瞬間が、順次訪れることになるでしょう。まさにそれが宗教との決別であり、人類の自立へと繋がるのです。
夜の街では、イルミネーションも華やかになり、クリスマスムードも高まってきています。クリスマスは、宗教的な意味合いよりも、単に楽しむという観点から、大変結構なものだと思います。宗教のかたちに惑わされず、その本質を見抜き、使えるところをうまく使えばよいだけのことです。主従違えることなく、きちんと自立した人類が、宗教の主人たる立場にいることが大切です。
《おまけ》
私は、日本という国に住む人々が、キリスト教でないにもかかわらず、クリスマスのようなイベントを楽しめるということには、とても重要な意味があると思っています。そしてまた、多くの日本人が理解しているかどうかは別にして、キリスト教でもない人々が、宗教から離れて、イエスを含むキリスト教信者という「隣人たちを愛する」ことを実践しているのは素晴らしいことだと思いますし、それこそが、真にイエスが伝えようとしていた精神を体現しているのではないかと思えてなりません(「クリスマスシーズンを迎えて」、「日本人の大切な「ゼロ」」等参照)。
なお、本記事は「宗教」をテーマとしてまとめましたが、これらは宗教に留まらず、既存のあらゆる社会システム(組織、国家、経済、教育等のシステムや諸制度)と置き換えることもできるだろうと思います。