常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

「バンブーブレード」のOP

2008年02月01日 | 独り言

最近、面白いと思うアニメは「バンブーブレード」。いつも日本のアニメを見て思うことだけれど、キャラがよく立っている。キリノやさやの無駄に一所懸命なところとか、タマちゃんの寡黙なヲタぶりとか、ブラックなみやみやとか、サトリンのドジッ娘ぶりとか、どんぐりなくせに男らしい段くんとか・・・。見るたびに、可笑しすぎていけません。

けれども、実際このアニメの原作は知りませんでした。そもそも原作まで把握しておくのは、相当大変。いつも漫画喫茶に行って困るのは、あの膨大な数の漫画本から、何を選んでよいのかさっぱり分からないということ。そういう意味で、アニメ化されている作品は、数が限られているので、チェックがしやすくて非常に楽です。

しかし、一方で思うことは以下3つの残念。

ひとーつ。
僕がたどり着いていないだけで、アニメーション化されていなくても、漫画として面白いものは、もっともっとたくさんあるはず!ということ。そういう作品にきちんと出会えていないだろうことが残念。

ふたーつ。
たとえアニメーション化されている面白いものでも、ヒットの機会が与えられないとなかなか表には出てきてくれないということ。「バンブーブレード」はたまたま、僕のアンテナに掛かったけど、そういうアンテナに掛からないアニメもたくさんあるはず!ということ。そういう作品にきちんと出会えていないだろうことが残念。

みーっつ。
せっかく面白いアニメがあるのに、出会えていない不幸な視聴者がいるせいで、そのアニメを作っている人たちにきちんとお金が入らないという不幸の連鎖がある。そういう不幸な視聴者と不幸な制作者がいるだろうことが残念。

これらは偏に、現在のマスメディアの限界だと思うのですが、それはあらためて本編で真面目に書きます。ここは、ひとまず「独り言」カテゴリーの記事なので、好き勝手な感じで、締めの結論へ・・・。

「バンブーブレード」は面白いのに、OPを見るだけで全然お金を掛けられていないのが丸見えでヤバイですっ!正直、ニコ動に載っている「AIC涙目」OPの方が出来がいいのはどーしてだぁぁぁ!!!

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ネットとコンピューターの融合

2008年02月01日 | 産業

コンピューターが高性能化の一途を辿るなか、その成長軸には限界が迫りつつあると思います。これまでPCは、ひたすら高速化・大容量化等の高性能化を実現してきましたが、その方向軸での成長は限界を迎え、また「データの安全性」、「ニーズの多様化」、「端末の多様化」等の課題が表出してきました。こうした高性能化一辺倒の方向性に限界を迎えつつあるコンピューターは、急速に発達しているネットワークを取り込みながら、新しい成長軸を模索しつつあります。しかし、これまで高度に発達してきたネットワークですが、今後、コンピューターのこうした限界を補完するには十分ではなく、セキュリティーやメンテナンス等の観点から、いくつかの問題を抱えていることも事実です。これら一連のコンピューターに関する傾向や課題についての詳細は、「コンピューターが向かう場所」を参照していただければと思います。ここでは、それらの課題を克服するため、今後のネットワークのあり方やコンピューターの方向性について、整理していきたいと思います。

まず、ネットワークの発達については、大きく二つの軸で捉える必要があります。

ひとつは、いわゆる「ブロードバンド化(高速化、大容量化)」です。これによって、非常に大きな容量のデータを扱えるようになってきました。分かりやすい例で言えば、動画コンテンツの視聴等が可能になりました。ブロードバンドが普及始めた当初では、インターネットの主な使い方は、電子メールや簡単なウェブサイトを閲覧する程度であったし、実際、ブロードバンド回線に、それを超える用途を十分にサポートするだけの容量はありませんでした。しかし最近では、非常に多くの動画コンテンツがインターネット上に溢れていますし、私たちはそれをブロードバンド回線で、いつでも視聴できるような環境になりました。また、こうしたブロードバンドが定額制で普及していったことで、これまで従量課金制(使った分だけお金を払う)が当たり前だった「電話」のようなアプリケーションを、インターネット電話等を通じて、使い放題で利用できるようにもなりました。

ふたつめは、「モバイル化」です。これは携帯電話に象徴されるように、その利便性はとてつもなく高く、またその普及率はそれを証明していると言えるでしょう。電気通信事業者協会の発表によると、携帯電話の加入者数は1億人を超えているそうです。これは、とんでもなく高い普及率であると言えます。実際、自宅にいるような場合でも、ついつい携帯電話を使ってしまうという人も多いと思います。今までの固定電話に比べて、極めて利便性が高く、またそれだけ社会に及ぼす影響が大きいのが携帯電話であると言えるでしょう。

ただし、ネットワークの発達についても、コンピューターと同様、実は大きな曲がり角に差し掛かっていると言わざるを得ないと思います。上記の二つのネットワークの成長性については、そろそろ限界がみえてきました。つまり「ブロードバンド化」については、光ファイバーの普及もありますが、ADSLの高速化により、大部分の人々が動画コンテンツのような大容量コンテンツをストレスなく視聴できるような環境が整いつつあり、また「モバイル化」についても、携帯電話がそれだけ高い普及率を記録したということは、逆に飽和状態になりつつあるという意味であり、ネットワークそのものの成長軸が、見直されるべきときに入っているということだと思います。

こうした状況を受けて、通信業界では、近年「モバイルブロードバンド(あるいは無線ブロードバンド)」という考え方が注目され、また実際にそうしたサービスを提供したり、準備したりする動きが活発化してきています(ただし私は、後述のようにコンピューター産業全体のあり方まで視野に入れ、これからのインフラは「無線ブロードバンド」ではなく、「モバイルブロードバンド」であることが必須であると考えています)。この事業分野は、前述のように、これからのコンピューターを補完するという意味において、大変重要な役割を果たすと共に、「ブロードバンド×モバイル」、「インターネット×ケータイ」という図式からも簡単に想像できるとおり、社会に対するインパクトが極めて大きく、また非常に大切な分野であると思います。

しかし一方で、私はこれまでの延長線上で、単に「モバイルブロードバンド」のインフラを実現するだけでは、ネットワークがコンピューターの限界を補完するようなことは起こり得ないし、またそれほど大きなインパクトある事業にもならないと考えています。実際、現在のモバイルブロードインフラ(あるいは無線ブロードバンドインフラ)の整備は、端末としては、モバイルPCやPDA(携帯用の小型コンピューター)等を想定しており、それを超える部分は、「条件不利地域」と言われるような地方のブロードバンド化での用途が考えられています。前者のようなニーズについては、相変わらずセキュリティーの問題が残りますし、たとえそれらの問題がクリアされたとしても、それ以上の大きな広がりを持つことは大変厳しいと思います。また後者のようなニーズでは、極めて限られたインパクトしか与えられないことになります。

私は、上記のようなポイントを勘案し、コンピューターとネットワークの問題点を解決するためには、コンピューターのシン・クライアント化と、それを前提にしたモバイルブロードバンドネットワークの構築が必要であろうと考えています。「シン・クライアント」の「シン」とは「Thin(薄い)」という意味で、従来のPCのように高性能化のまったく逆で、ほとんど入力機能と表示機能しか持たせないようなコンピューターをイメージすればよいと思います。その代わりに、そのコンピューターはネットワークで、中央にあるサーバー(大型の高性能コンピューター)と繋がっており、いわゆる通常コンピューターが行うべき演算処理は、その中央にあるサーバーが行うというものです。シン・クライアントの考え方は、かなり以前からありましたし、これまでいろいろな試みがされてきましたが、なかなか定着しませんでした。これには様々な理由が考えられますが、私は、既に指摘しているようなコンピューターやネットワークの限界が迫っている今日において、またシン・クライアントのための各種技術的要件が揃いつつある現在において、ようやく徹底的にシン・クライアント化させたコンピューターが広く普及する素地が整ってきたものと考えています。これからの社会におけるシン・クライアントのイメージや必要性等については、後日整理するようにしたいと思います(「シン・クライアントの潜在力」参照)。

いずれにせよ本問題は、コンピューターやコンピューター業界の仕組み全体を変えるという非常に大きなテーマであり、国家をどう舵取りするかということまで視野に入れた政策が必要な課題でもあります。しかし、これからのコンピューター産業に求められているのは、既存の方向軸に沿った成長だけではなく、ネットワークをいかに積極的に取り入れ、コンピューターのあり方をどれだけ根本的に変えていくかという発想であると考えます。

そしてまた、これはコンピューター産業に留まらず、通信業界に携わる方々にも、深く考えていただかなければならないテーマでもあります。単に「モバイル化」、「ブロードバンド化」を進めるのではなく、限界を迎えつつあるコンピューターを如何に発展させていくかというビジョンを持ちながら、それに必要な通信インフラを構築していくことこそが、通信に携わる方々に求められてくるのです。

私は、現在の日本には、ネットワークとコンピューターを融合させ、これらの仕組みを一通り実現できるだけの可能性を十分に秘めていると思いますし、またこれを実践していくことが、これからの日本産業を活性化させるのに大きく貢献することに繋がるのではないかと考えています。

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「四次元の目」で見えるもの

2008年02月01日 | 異次元

第三の目、心眼、千里眼、神眼、全てを見通す目、プロビデンスの目・・・。いろんな言い方をしますが、これらは、顔に付いている物理的な「二つの目」以外にあるとされる不思議な目のことを指しています。その目で何を見ることができるのかという点については、いろいろな方々が、それぞれの主張をされているようですので、何とも言えません。ただ私なりには、その目は物理的な目とは違い、物質世界(三次元世界)に囚われない目であり、「四次元の目」とでも言うべきものではないかと解釈しています。そして「四次元の目」には、事象の本質を捉え、未来を見通すビジョンを映し出す力があるのではないかと考えます。

本題に入る前に、この不思議な目については、米国紙幣の裏側にある「ピラミッドの上の目」に関する話も聞きますので、その点について、若干触れておきたいと思います。米国紙幣の裏面には、ピラミッドが描かれており、その最上部に「人間の目」があります(右図参照)。これは、ある特定の組織のシンボルであるといった指摘があります。また最近では、ニコラス・ケイジ主演の映画「ナショナルトレジャー~リンカーン暗殺者の日記~」に、このシンボルが使われていたりもします。こうした情報をかき集めていくと、このピラミッドの目については、いろいろと分かることが出てくるでしょう。一部では、米国や米国政府そのものを動かしている巨大な権力が、人類の「万物を見通す目」という素晴らしい能力を独占しようとしているといった具合に、危機感を煽るような方々もいらっしゃいます。事の真偽は分かりませんが、私はたとえ米国やその関係者の方々が、人間の特殊な能力「四次元の目」に注目して、それを開発しようとしていたとしても、現在のような手法(科学や宗教)では、けっして開かれることはないだろうと思います。それは、以下のような理由によります。

この三次元世界は三次元の法則だけで動いておらず、四次元世界の影響を大きく受けているだろうと考える(「確からしい四次元の存在」参照)と、三次元世界でのあらゆる事象は、四次元世界の法則が可視化したものに過ぎないと考えることが可能です。そして、こうした考え方は、ずいぶん昔から存在していたように思います。

江戸時代の隆盛した国学では、本居宣長が「顕幽論」というのを唱えています。これは世界の事柄を「顕事」(=現世における人が行う所業)と「幽事」(=目に見えない神の為せる事)に整理したもので、私はこれらの世界をそれぞれ「三次元世界」、「四次元世界」に置き換えることができると思います。本居宣長の門人である平田篤胤は、師の「顕幽論」に対して「幽冥論」を展開し、「顕界(三次元世界)」は有限の仮の世界であり、「幽界(四次元世界)」こそが無限の真の世界であるという整理をしました。どちらが「仮」で、どちらが「真」かという議論はさておき、少なくともこの物質世界(三次元世界)の事象は、高次元世界の法則等が顕在化したものに過ぎないという考え方そのものは、それほど的外れではないように思うのです。

そこで「四次元の目」について考え直します。三次元世界が、四次元世界の法則等が顕在化したものであるとするならば、四次元世界がどうなっているかを見据えることは、三次元世界の将来を予見するということになります。即ち、「四次元の目」は、三次元世界の将来や本質を見通す目であり、未来のビジョンを映し出す目であるということです。

ところで、このように「四次元の目」等というと非常に仰々しく、何か特別なもののようなイメージを与えてしまいますが、これは誰にでもある「目」なのです。簡単な言い方をすれば、どんなことでも「本来こうあるべき」というイメージを描くことが、「四次元の目」で見るということであり、それによって見えているイメージが、あなたの「四次元の目」で見えるビジョンであると言えます。

四次元世界という言葉についても、非常に難しく考えてしまうかもしれませんが、それほど難しいものではないと思います。既に「確からしい四次元の存在」で述べているとおり、四次元世界を目に見えない、「心の世界」と解釈すれば簡単なことです。生きている人間であれば、誰しも心があるわけですから、それを感じることはできるはずです。心を持っていれば、人間にとって何が嬉しいか、何が楽しいかかが分かりますし、また何が辛いか、何が悲しいかも感じることができます。それらに基づいて、人間は何が幸せであるかを知り、何が道理であるかを知ることができるわけです。常日頃から心を磨いて、その心に素直になればなるほど、四次元世界は言葉としてではなく、体で感じることができるようになるでしょうし、そのことで自ずと「四次元の目」が育つことになるのだろうと思います。

また「四次元の目」が育つと、その人は強い人間になっていくことができます。開かれた「四次元の目」を持っている人は、次に三次元世界で何が起きるかが分かります。何が起こるかが分かっていれば、三次元世界の未来像となって、その人の頭の中にイメージとして沸いてきます。それこそが、いわゆる「ビジョン」であり、それはその人が正しいと思う道に進むことに対する自信となり、また勇気を与えてくれます。このように三次元世界の過去や現状に囚われず、未来を見通す力とそれに向かって進んでいく強さは、本来、どんな人間にも備わっているものだと思うのです。

このように「四次元の目」とは「心の目」であり、これを開くためには、自分の心との対話を重ねていかなければなりません。それはあくまでも自分の問題であり、他人に頼ることができないのです。科学や宗教は、三次元や四次元世界の理解を促し、そうした自分の心との対話を進めるための道具にはなり得ても、決定的な解決手段にはなり得ないという点が重要であり、わたしたちは、そのことを十分に理解しながら、科学や宗教と向き合っていく必要があるのです。

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日本再生のポイント

2008年02月01日 | 日本

これからの世界において、日本はリーダーとしての役割を果たしていかなければいけないと思います(「世界のリーダーたるべき日本」参照)。しかし、現在の状況だけをみると、その道筋は大変厳しいと言わざるを得ません。

①国家財政
日本の国・地方の債務残高(借入金や政府短期証券を含む)は、既に1000兆円を超えています。財務省の「財務残高の国際比較(対GDP比)」によると、1993年時点で、米国71.9%、英国49.3%である、日本74.7%であった債務残高の対GDP比は、2007年に米国61.8%、英国49.0%であるのに対し、日本は177.6%というとんでもない数字に跳ね上がっている状況なのです。「経済大国日本」は、もはや虚像です。GDPをはるかに超えた債務を抱えている現状は、いつ国家財政が破綻してもおかしくない状態であることを意味しているということを、私たちはきちんと認識しなければなりません。

「世界のリーダーたるべき日本」といったところで、借金まみれの国家が世界をリードできるはずはなく、まずはこうした病的な財政状況からどのように脱却すべきかを真剣に考えなければなりません。

②リーダー不在
国家財政が非常に危機的状況にあるなか、今日の日本にはこれを打開できるリーダーがいないという大きな問題があります。至極当然のことですが、国家の難局を打破するのは、政治家だけの仕事ではありません。財界や各省庁の方々が、一致団結して同じ方向に向かって、各種政策を策定し、実践していくことで克服していかなければならないはずです。

しかし現状では、日本の経済界あるいは政治家の票田となる組織全体が、必ずしも日本の行く末を見据えた活動を行えているわけではなく、そうした組織体を力の源泉とせざるを得ない政治家や政党が、将来の日本のためのリーダーシップを発揮し活動していくのは、極めて難しいと言えるでしょう(国会議員が、国のために本来言うべきことを言えない、あるいはやるべきことができないということがあったとしても、それはその国会議員(政治家)だけの責任や問題ではないと考えます)。

③産業の虚像化
以前「産業の空洞化」という言葉がありましたが、今、深刻化しているのは「産業の虚像化」です。情報通信産業が発達し、日本はこれまでの製造業等の「モノづくり」中心の産業構造から、情報やサービスを中心とした第三次産業に主軸を移してきています。第三次産業を否定するわけではありません。しかし、これに頼りすぎた産業構造あるいは価値観による経済活動は、「産業の虚像化」を引き起こすことに、十分注意を払う必要があります。

とくに近年では、証券市場や金融商品を活用して財を成すケースが多発し、またそれを社会が煽る風潮があるように思います(煽る意思があるかどうかは別にして、結果として煽る結果になっていると思います)。こうした金融手法によって富を築く人々がおり、またそれによって社会が一時的、あるいは局地的に豊かに見えるようになる一方で、見えないところで国家財政は、ますます悪化の一途を辿るという大変な状況を生み出しているわけです。

こうした現状を鑑みて、私はまず、日本は産業の再構築を進める必要があると考えます。日本の産業が復活し、新しい方向性が見えてくれば、それが牽引力(あるいは新しい票田)となって、言うべきことを言い、やるべきことをやる強いリーダーシップを持った政治家(政党、内閣、大臣)を輩出することが可能になるでしょうし、それによって方向性が定まった各省庁からの政策が生まれてくるようになると思うのです。つまり、「強力な産業 ⇒ 強い政治 ⇒ 統制のとれた政策」のシナリオを進めていくことで、結果として、現在深刻化している国家財政のような問題等も解決できるようになると考えるのです。

ところで私は、その日本産業の再構築について考えるとき、具体的な分野として、①製造業、②コンテンツ・メディア業の二つが力点になるのではないかと考えています。「①製造業」については、前述の「産業の虚像化」を食い止め、実業を育てるという意味で、必須であると考えています。具体的に、どの部分を育てていかなければいけないかという点についての説明は、機会をあらためたいと思います(「新しい産業構築に向けて」参照)。

また、もうひとつの「②コンテンツ・メディア業」については、世界に対して日本文化を深く浸透させていくという観点から、必要な事業になると考えています。

パックス・アメリカーナ(超大国アメリカによる世界平和の時代)と言われて久しいですが、この間、アメリカという超大国を支えたのは、(軍需を含む)産業であり、それを基盤においた経済優位性でした。この点は、ほぼ異論を挟む余地はないのではないかと思います。

私はさらに、パックス・アメリカーナの背景には、米国の産業力や経済力と共にハリウッドに象徴されるような「文化力」も強く働いていたのではないかと考えています。米国文化の世界への浸透は、米国に憧れ、学ぼうとする多くの若者を輩出し、世界中から米国の価値観を学ぼうという人々を呼び集めました。また、実際に米国に行ったことがなくても、映画やテレビ等を通じて、常日頃から米国のコンテンツ(ハリウッド映画やミッキーマウス等)に接することで、米国が他国よりも親しみのある国として、世界中の多くの人々から認識されるようになったのは事実だろうと思います。私は、日本にも米国に比肩する、あるいはそれ以上の「文化力」があると思いますし、またそれを積極的に世界に発信していく必要があると考えています。

いずれにせよ、日本が世界のリーダーとしての役割を果たすためには、日本が再生しなければいけませんし、そのための産業復活(あるいは再構築)は必須であろうと考えます。

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