●何もしゃべらない無口の人を見て・・・
何も考えていない「バカ」と思う人、あなたが「バカ」です。
何か考えている「思慮深い人」と思う人、あなたは思慮深い人です。
●理解不能な外回りばかりしている職場の同僚を見て・・・
仕事をサボる「ダメな奴」と思う人、あなたが「ダメな奴」です。
とにかく「一所懸命な人」と思う人、あなたは「一所懸命な人」です。
●人助けをしている人を見て・・・
下心がある「ズルイ奴」と思う人、あなたが「ズルイ奴」です。
素直に「優しい人」と思う人、あなたは「優しい人」です。
他人の言動は、表面でしかみえません。その言動が、どういう心や気持ちから起こったものなのか、その人がいくら説明をしたところで、本当のところは分かるものではありません。結局、その裏側にある心や気持ちは、その言動を見た自分で察したり、感じたりするしかないのです。そして、そうした心や気持ちを察したり、感じたりするときに参照するものは、自分自身の心や気持ちです。ある人の何らかの行動を見たとき、「自分だったら、こう思うから・・・」という自分の心や気持ちに沿ったかたちで、他人の言動を解釈するわけです。
無口の人を見て、「だって、何も考えていないからしゃべらないんだよ!」と言う人は、自分が無口のときは、何も考えていないからです。自分が無口のときに、考え事や悩み事をしている人は、「何か考え事や悩み事があるんじゃないか」と思うはずです。
職場に姿を見せない同僚を見て、「あいつ、仕事しないでサボっているんだ」と言う人は、自分が職場にいないときはサボっているからです。職場にいなくても一所懸命に仕事をしている人は、「他人には説明できないけど、一所懸命やっているんだよ」と思うはずです。
人助けをしている人を見て、「うわっ、何を狙っているんだ?」と言う人は、自分が人助けをするときに、何かを狙っているからです。人助けをするときに、素直に優しい気持ちから人を助けている人は、「きっと優しい人なんだ」と思うはずです。
他人の言動は、三次元世界的な意味において、ひとつの事象として、極めて客観的に捉えることができます。しかし、その裏側にある見えない部分(心や気持ち)は、それを見る人の主観に完全に委ねられているのです。そして、その主観はそれを見る人の裏側にある見えない部分(心や気持ち)を映し出しているに過ぎないということを忘れてはなりません。
あなたの周りにいる人々が、「善」に見えるか、「悪」に見えるかは、あなた自身の心が「善」か、「悪」かを映し出しているだけ。そう思いながら、あなたの周りの人々を、あらためて見回してみたらどうでしょう(「使える人と使えない人」参照)。
また、そんな人々が作り出している社会が、「善」に見えるか、「悪」に見えるかは、あなた自身の心が「善」か、「悪」かを映し出しているだけ。そう思いながら、あなたが住んでいる世界を見直してみたらどうでしょう。
答えはすべて、あなた自身のなかにあるはずです。そして、それらを変えていくのは、あなた自身にしかできないことのはずです。