常識について思うこと

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使える人と使えない人

2007年08月06日 | 人生

「あの人は使える」、「あの人は使えない」などと言うことがあります。使える、使えないだけではありません。「あの人は優秀だ」、「あの人はよくできる」、「あの人は頭がいい」、「あの人は信用できる」、「あの人は人望がある」・・・などと言うことがあるし、それとは対照的に「あの人は劣っている」、「あの人はダメだ」、「あの人は頭が悪い」、「あの人は信用できない」、「あの人は人望がない」・・・などと言うこともあります。いずれにせよ、こうした評価をしていくなかで、人間は自分に都合の良い人を「使える人」とし、都合が悪い人、あるいはどうでもよい人を「使えない人」に分類していきます。

ところで、このように評価をするということは、客観的なものと主観的なものの2つに大きく分けることができます。

客観的な評価とは、いわゆる定量的な評価、数字で明確化できるものです。例えば「優れている」という定義を「数学の能力が優れている」と置き換えれば、数学の試験を行うことで、その人の能力についてある程度の目安を測ることはできます。それが「数学」でなくても構いません。語学、芸術、スポーツ・・・何でもよいのです。何かしらの評価対象を決めることができれば、それにあわせた評価軸を当てることができます。この場合で言えば、「数学」という評価対象を決めれば、「試験」という評価軸を当てるといった具合です。

ただし、こうした定量的評価を行うには、必ず評価対象を限定しなければならず、それにあわせた評価軸を設定しなければならないという点に注意が必要です。実は、この評価対象を限定するということだけでも大変なことであり、こうした限られた評価対象のみを持ってして人間を評価することに、如何に限界があるかを考えなければなりません。実は、数学だけでも代数学、解析学、幾何学、応用数学などといった分野によって、それぞれ得意・不得意が分かれるため、この評価対象がよいかどうかも判断が非常に難しいのです。これらは語学、芸術、スポーツなど、それぞれの分野についても、すべて同じように当てはまることです。本来、限定すべき評価対象は無数に存在し、そのうちのひとつの評価対象を持って、人間の絶対的な価値を測ることなど、到底できないということを我々は肝に銘じておく必要があるでしょう。評価対象の絞込みだけでも、これだけの問題があるわけですから、これにあわせた評価軸の設定が如何に難しいかは言うに及びません。

人間に対する定量的評価のこうした問題は、至極当然のことであると知りつつも、現代社会に住まう人間は、兎角それを忘れしまい勝ちとなっていることが恐ろしいことでもあります(「人間の優劣と競争社会」参照)。数字を用いた定量的な評価は、優劣を明確化でき、評価値を可視化できるという点において、説得力を持ちやすくはなるし、参考情報程度にはなり得ますが、けっして絶対的なものではないことに十分注意しなければならないし、それに頼りきってもならないことを忘れてはなりません。

同じように客観的な評価とされうるものとして、定量的評価以外にも受け入れられがちなのが、一般的な社会認識とでもいうべき、いわゆる多数決の論理の結果としての評価です。一般的に社会通念上、「そう思われることが妥当である」とされるものがあり、そうした評価は、客観的な評価として受け入れられやすいものです。例えば「あの人は○○大学出身だから頭がいい」、「あの人は前科があるから信用できない」といった具合で、人間を評価することがこれに当たります。こうした評価は一般的に広く認められやすいため、圧倒的な大多数の主観が同じような評価をするということから、「客観的評価」と思われる傾向にあります。

しかし、この場合の客観というのは、あくまでも多数決の論理の結果であり、基本的には自分以外の主観の集合体でしかない点を見逃してはなりません。他人の主観を軽んじる必要はありませんが、「主観」とは自分自身の見方である、という本来の意味から考えれば、他人の主観以上に自分の主観を重視すべきであることは自明の理です。したがって、この場合のような他の主観の集合体としての客観的評価についても、定量的評価と同じように参考情報程度にしかならないことを十分理解しておく必要があります。

少々、前置きが長くなりましたが、要するに人間の評価というものは、最終的には評価する人間自らがもつ主観によってしか行うことができないということです。そして、評価を行った人間が、その評価結果に基づいて、評価した人間を「使える人間」と「使えない人間」に分別していき、「あの人は使える」、「あの人は使えない」という発言になるということです。

ここでひとつ自問自答していただきたいと思います。あなたの主観で考えていただきたいと思います。

あなたの周囲にはどれだけの「使える人」がいるでしょうか。また、どれだけの「使えない人」がいるでしょうか。周囲だけではありません。この世の中で生きているすべての人々に対して、あなたはどのように「使える人」、「使えない人」を分類できるでしょうか。

「使える人なんてほとんどいない」と答える人がいるかもしれません。「自分は一所懸命やっているが、周囲が使えない人間ばかりで困る」などと言う人もいるでしょう。しかし、端的に言って、このような人は自分の無能さを大いに恥じてほしいと思います。「周りが使えない」というのは、「自分が優秀だけど、他人は無能で使えない」という意味で使っているように見受けられる人がいますが、これは大きな間違いです。まず周りの人々が「使えない人間」としか映らない自分の無能さを恥じるのが先です。

「使える人」がほとんどいないと感じるのは、自らがすべきことをほとんど何も見出していないからです。自分が成すべき大義もなく、ビジョンもなく、またそういうことをやり切ろうとする覚悟もないため、人を「使えない」と安易に切り捨てているに過ぎません。自分が大義をもっていれば、それを真剣にやりきるのに如何に大きな力が必要かを知っているし、多くの人々の手を借りる必要があることを理解しているはずです。そして、それらをやり切ろうという覚悟があれば、周囲にいる人々が残らず「使える人」に見えるはずなのです。

あなたの周囲には、どれだけの「使える人」と「使えない人」がいるでしょうか。周囲だけではありません。地球上には、実にたくさんの人々が生きています。それらの一人一人の人間について、あなたの主観はどのように評価を下して、「使える人」、「使えない人」に分類しているでしょうか。

今すぐでなくてもよいと思います。しかし「使える人」は、多くなっていかなければならなし、「使えない人」は、少なくなっていかなければなりません。そしていつの日か、あなたにとって、あらゆる人が「使える人」になってくれたとき、あなた自身も世界も大きく変わることになるのだと思うのです。

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