常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

力技は続かない

2008年02月11日 | 産業

正中線を保つことの重要性」という記事。これには、世に溢れる「力技」を自重してほしいという思いを込めました。

前日に、独り言ながら「拝啓 東堂いづみ様」という記事を書いています。テレビ番組の世界は、スポンサーがついてナンボという事情もあり、CMで流れるような玩具の売上げが最重要ポイントのひとつであるということは、十分に理解しています。しかし、それは視聴者が、テレビ番組の中身に十分に惹き込まれた結果であるという点がポイントです。つまり、視聴者がテレビ番組の懐深く呼び込まれた結果、「玩具販売」という技が、大きく働いたのであって、「玩具販売」という技そのものに、大きな力が宿っているわけではないということです。

ただ、最近のテレビ番組のうち一部には、視聴者を懐深く呼び込む前に、技をかけにいっているのではないかという印象を拭えないものもあります。結果として、呼び込みが浅い「力技」となっているのではないかという印象を受けるのです。これは「力」があるうちは効果がありますが、消耗戦には耐えられません。インターネットのような新しいメディアが生まれつつあるなか、テレビの絶大な影響力という「力」任せが通用しなくなる時代が予見されるのに「力技」の危険性を指摘せずにはいられませんでした。

またこれは、産業全体についても言えることです。新しい技術が生まれ、時代が変わりつつあるなか、多くの起業家の方々がその時流を捉えて成功を収められています。新しいニーズは、新しいサービスを生み出し、新しいサービスは、さらに新しいニーズを生み出すという正循環のなか、あらゆる企業は成長戦略を描いていきます。

そして、成功を収めた企業には、多大なお金が舞い込みます。成功した企業は、そうしたお金によって、いろいろなものを買えるようになります。そのうち、ある一定の成長点に達すると、起業家だった人々すらも、そのようなお金で「既存の企業(あるいは事業)を買収する」という手法に頼るようになります。このこと自体が悪いことだとは思いません。必要に応じて、企業買収はあって然るべきでしょう。

しかし、本来の企業活動の本質は、「社会ニーズを深く呼び込んでお金に変える」という技にあるのであり、お金によって企業買収するという行為そのものには、産業の本質は宿らないと考えます。近年の金融を駆使したビジネス手法については、資本主義のルールとして尊重しなければなりませんし、大いに利用していく必要がありますが、「お金の力」ばかりに頼った「力技」がまかり通るような産業構造はあり得ないし、それに頼りきっているような企業群が産業の核心的な地位を占めるような時代は、長く続かないと思うのでした。

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正中線を保つことの重要性

2008年02月11日 | 武術

真の強者は自ら仕掛けることをしません。体の中心軸(正中線)をまっすぐに保ちつつ、相手の攻撃を呼び込みます。いわゆる「隙のない構え」で、相手の攻撃を待つのです。逆に弱者は、殺されてしまう恐怖や自信のなさから、むやみに攻撃を仕掛けてしまいます。「弱い犬ほどよく吠える」という言葉がありますが、まさにそのことです(「抜かせてはならぬ最強の剣」参照)。

「武」の真髄は、その字の如く「戈を止める」ことにあります。究極の強者同士では、互いに構えるのみで打ち込むことはありません。したがって、真の強者同士の間には、結果的に争いごとは生じ得ないことになるのです(「風林火山と「武」のあり方」参照)。ドラマやアニメで、武術の達人同士が、互いの構えで力量を量るような場面があったりしますが、それはこういうことを意味しているのだと思います。

ところで、こうした強者はどのように戦っていくのでしょうか。極めて端的に表現するならば、「相手の攻撃の力を、自分の攻撃の力に転じて戦う」と言えるでしょう。

もう少し、説明を加えると、構えをとっている強者に対して、相手の攻撃が打ち込まれたときから、強者は防御に入ります。このときの防御は、相手の攻撃を「(ガチッと)受け止める」ようなイメージではなく、「受け流す」イメージです。正中線を保ったまま、相手の攻撃を「受け流す」ことによって、相手は徐々に体勢(正中線)を崩していきます。これは防御の開始時点から生ずることであり、その意味で、強者にとっての防御は、「相手の体勢を崩す」という攻撃の開始でもあります。また、相手の攻撃が強ければ強いほど、相手は大きく体勢を崩すことになります。こうした相手の攻撃を「受け流す」所作は、同時に相手の攻撃を「呼び込む」動作にもなります。つまり、相手が強い攻撃を仕掛ければ仕掛けるほど、強者は相手の攻撃を自分の懐に、深く「呼び込む」ことになるわけです。

そして、いずれ相手の攻撃は、臨界点を迎えます。つまり、体勢が崩れきるわけです。強者は、そこで技を使います。ただし、それには大きな力を用いません。あたかも「伸びきったゴムの端を放す」ような、極めて単純で小さなスイッチのようなものを押すイメージです。臨界点に達している相手は、体勢を崩しきっており、このスイッチで見事に倒れていくわけです。このとき、強い攻撃を仕掛けた相手は、大きく倒れていきますし、攻撃が弱かった相手は、小さくしか倒れていかないことになります。表面的には、大きく打ち込んできた者には、大きなダメージを与え、小さくしか打ち込んでこない者には、小さなダメージしか与えないという戦い方に見えることになります。

いずれにせよ、大切なことは、真の強者は自ら技を仕掛けにいくのではなく、相手の攻撃を呼び込んで相手を倒すのであり、その呼び込む深さによって、相手に与える攻撃力が決まってくるということです。

相手を倒したい一心で、自ら技を仕掛けにいったり、十分に呼び込みきっていない(相手の攻撃が臨界点に達していない)状態で技を使ったりすると、技の入りが浅くなり、物理的な「力の強さ」に頼らなくてはならなくなります。こうなると、いわゆる「力技」になり体力を消耗するばかりでなく、相手に力負けしたときには、自分が負けるというリスクまで抱えることになります。これは真の強者の戦い方ではありません。

ところで、上記、強者の戦い方のなかで、最も大切なことは「正中線を保つ」ということです。「受け流す」、「呼び込む」という所作への説明は、なかなか省くことが難しく、こうした部分に焦点が当たりがちになりますが、最も重要なことは、正中線を保ち続けるということなのです。正中線がぶれてしまっては、「受け流す」、「呼び込む」といった所作が、かえって相手に隙を与えてしまうことになります。武を極めるにあたっての基本は、正中線をしっかり保つことであり、これが真の強者の絶対条件でもあります。

また、正中線を保つことの重要性は「武」においてのみ通ずるものではなく、人間のあらゆる所為についても言えることでないかと思います。心の持ち方、生き方、信念、正義・・・。真の強者たらんためには、ひとりの人間として、どのような正中線を持つべきか、常に自問自答を繰り返していく必要があるのだろうと思います。

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