「正中線を保つことの重要性」という記事。これには、世に溢れる「力技」を自重してほしいという思いを込めました。
前日に、独り言ながら「拝啓 東堂いづみ様」という記事を書いています。テレビ番組の世界は、スポンサーがついてナンボという事情もあり、CMで流れるような玩具の売上げが最重要ポイントのひとつであるということは、十分に理解しています。しかし、それは視聴者が、テレビ番組の中身に十分に惹き込まれた結果であるという点がポイントです。つまり、視聴者がテレビ番組の懐深く呼び込まれた結果、「玩具販売」という技が、大きく働いたのであって、「玩具販売」という技そのものに、大きな力が宿っているわけではないということです。
ただ、最近のテレビ番組のうち一部には、視聴者を懐深く呼び込む前に、技をかけにいっているのではないかという印象を拭えないものもあります。結果として、呼び込みが浅い「力技」となっているのではないかという印象を受けるのです。これは「力」があるうちは効果がありますが、消耗戦には耐えられません。インターネットのような新しいメディアが生まれつつあるなか、テレビの絶大な影響力という「力」任せが通用しなくなる時代が予見されるのに「力技」の危険性を指摘せずにはいられませんでした。
またこれは、産業全体についても言えることです。新しい技術が生まれ、時代が変わりつつあるなか、多くの起業家の方々がその時流を捉えて成功を収められています。新しいニーズは、新しいサービスを生み出し、新しいサービスは、さらに新しいニーズを生み出すという正循環のなか、あらゆる企業は成長戦略を描いていきます。
そして、成功を収めた企業には、多大なお金が舞い込みます。成功した企業は、そうしたお金によって、いろいろなものを買えるようになります。そのうち、ある一定の成長点に達すると、起業家だった人々すらも、そのようなお金で「既存の企業(あるいは事業)を買収する」という手法に頼るようになります。このこと自体が悪いことだとは思いません。必要に応じて、企業買収はあって然るべきでしょう。
しかし、本来の企業活動の本質は、「社会ニーズを深く呼び込んでお金に変える」という技にあるのであり、お金によって企業買収するという行為そのものには、産業の本質は宿らないと考えます。近年の金融を駆使したビジネス手法については、資本主義のルールとして尊重しなければなりませんし、大いに利用していく必要がありますが、「お金の力」ばかりに頼った「力技」がまかり通るような産業構造はあり得ないし、それに頼りきっているような企業群が産業の核心的な地位を占めるような時代は、長く続かないと思うのでした。