子供向けの番組から、物事の本質を学びとれることは多くあります。日曜日の朝は、時間的にも合わせやすいため、いくつかの子供向け番組で勉強させてもらっています。
「ふたりはプリキュア」という番組が、1月28日の放映日を最後に終わりました。プリキュアとは、悪と戦う二人の女の子で、物語上、伝説の戦士ということになっており、滅びの力をもつアクダイカーンやゴーヤーンといった悪者キャラと戦っていく女の子のアニメです。このなかで、私なりに注目したいのは、主人公でも悪玉でもなく、この二つの勢力の狭間でさまよった、「ミチル」と「カオル」という、別の二人の少女たちです。
ミチルもカオルも、プリキュアと同じく二人の女の子ですが、悪の化身アクダイカーンの滅びの力で生まれた存在で、アクダイカーンに忠誠を誓って、プリキュアを倒すことを使命として負っています。その意味で、ミチルとカオルは悪者キャラです。そして、ミチルとカオルは、友達を装って、しばらくの間プリキュアの傍でプリキュアの弱点を探っていきます。そのなかで、プリキュアがお互いがお互いを必要としたり、他人がいないとエネルギーが出ないというプリキュアの弱点を掴んでいきます。しかしそれと同時に、人間の温かみや素晴らしさ、自然の美しさなどについて、プリキュアから教えられ、それに気付かされてしまうのです。「ミイラ取りがミイラになる」といったところでしょうか。
そして、滅びの世界に戻ったミチルとカオルは、アクダイカーンに直訴します。「人間は暖かく、世界は美しく素晴らしい。壊すことなどしないでほしい」と必死に訴えるのです。当然のことながら、アクダイカーンは怒りまくり、ミチルとカオルを許しません。
行き場をなくしたミチルとカオルは、結局自分たちの信念を貫き、プリキュアとともにアクダイカーンやゴーヤーンと戦う道を選びます。しかし、ミチルとカオルは、アクダイカーンの滅びの力で生まれた存在であり、アクダイカーンは、いわばミチルとカオルにとって、親のような存在です。ミチルとカオルにとって、アクダイカーンと戦うというのは苦渋の選択であり、できることなら避けたい行動です。けれども、最終回では、ミチルとカオルが、まさにプリキュアと同じように、アクダイカーンたちと戦いました。
そして、いよいよクライマックス。プリキュアと共に戦ったミチルとカオルは、ついに勝利を手にします。しかし、このことによって滅びに力が消滅します。ミチルとカオルは、滅びの力で生かされていた存在であり、滅びの力がなくなることは、ミチルとカオルにとっての死を意味するのです。ミチルとカオルはプリキュアに別れを告げ、そして死んでいくのです・・・。
が、最後の最後。不思議な力が働いて、ミチルとカオルは甦ります。「な~んだ、そうやって生き返っちゃうのかよ・・・」と、言いたくなる気持ちも分からないでもありません。しかし私は、信念を貫き通し、そのために命がけで戦っていく者は、死にかけても必ず救われていくし、そうあるべきだと思うのです。
話は変わりますが、イエス・キリストという人は、信念を貫き通しましたが、最終的には十字架にかけられ、救われることがありませんでした。しかし、これからの世の中は変わっていなければなりません。地球環境が破壊されつつあるなか、人類の悲劇の歴史が、ふたたび繰り返されて許されるほどの時間的余裕はないのです。これからの世界では、イエスのような人が救われなければならないし、イエスの過ちを二度と繰り返してはならないと思うのです(「イエスから学ぶもの」参照)。ミチルとカオルの甦りは、まさにその象徴だと考えます。
またイエスは、言うまでもなくキリスト教の元となった人ですが、彼の人生のうち、30歳頃まではほとんど明らかにされていないといいます。明らかになっているのは、30歳頃から以降、十字架に磔にされるまでの3~4年でしかないのです。イエスは、その3~4年という短い間に、キリスト教の元となる言動を起こしているのです。
ここでひとつの仮説があります。それは、実は彼は30歳頃まで、とくに聖人たる行いもなく、平々凡々とした暮らしをしていたのではないかという、以下の視点によるものです。
ヒントは、例えば「原罪」とは何かに隠されていると思います(「原罪とは・・・」参照)。原罪の解釈には、キリスト教のなかにも諸説あるらしく、一概には言えませんが、いわゆる普通の人間が生まれながらにして背負っている罪と解釈しておけばよいでしょう。 30歳を迎える頃、イエスは互いに憎しみ合い、殺しあう人間のエゴに気付いたのです。そして、それを認めてしまい、闇を抱える社会の問題を知ったのでしょう。しかし、人間はそうした人間や社会の問題を直視しようとせず、それに甘んじて生きており、彼はそうした人間に罪があると思ったのかもしれません。けれども、そんな自分も人間です。いかに問題があるとはいえ、自分自身が人間から生まれ、社会に育ててもらった以上、自分がそれらをすべて否定することはできません。
ポイントは、それに気付いた自分は聖人でも何でもない。本当に普通の人間だったということです。自分自身が、普通の人間であり、単なる社会の一構成員なのです。だからこそ、それらの罪は、すべてみんなの罪であると同時に、自分の罪でもあると考えるほかないのです。そして自分を含め、この世界に生きる全ての人間は、生まれながらにして罪をもつと考えることができるわけです。
30歳を迎えた頃、イエスはそれに気付き、人間や社会、そして自分自身の罪深さを知ったのかもしれません。そして、その原罪を命がけで償おうという決意を固め、十字架にかけられたと考えることができるのです。
大切なことは、人間は生まれてすぐに、その罪(原罪)について気付くのではなく、普通に生きているうちに、どこかでそれを知るのだろうということです。
「ふたりはプリキュア」のミチルとカオルは、滅びの力によって生まれました。いわば、原罪をもって生まれてきた存在です。しかし、原罪があるからといって、生きてはならないということではありません。原罪を命がけで償おうとした者は、きちんとその罪が償われ、新たな命を与えられなければならないと思います。そうでなければ、我々はまたイエスと同じ過ちを繰り返すことになります。原罪を抱えている人間は、その罪を償うことで、きちんと生きながらえることができる世界にしていくべきです。それが、我々人類がイエスから学んだことではないかと思うのです。
遅過ぎるということはありません。イエスは30歳を過ぎてから、その罪に気付き、行動を始めたのかもしれません。ミチルもカオルも、プリキュアから人の優しさや自然の美しさを教えてもらい、それを知ってから、自分たちの信じるものに向かって、戦いを始めたのです。誰も最初から正しい方向など向いていないし、気付いてもいないのです。
大切なことは、正しい方向に気付いたときです。今の人間や社会の問題を直視し、それから逃げずに、自分が何をするべきかに気付いたときから、原罪の償いを始めていけばいいのです。そして、その命がけの行為の先には、きっと新たな生命が与えられるし、新しい世界が広がっていると思うのでした。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます