常識について思うこと

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性善説と性悪説の決着

2008年02月06日 | 社会

性善説と性悪説については、その説そのものの解釈を含めて、いろいろな議論があるので、ここでは特段、その中身に触れる必要はないと思います。また、それらの考え方をめぐっては、どちらが正しいという結論を出すのは大変難しく、おおよそ「バランスが大事」という結びになっている文章も多々見られます。私はこれまでの思想家、あるいは現代の多くの人々の解釈や考え方が割れるのは当たり前だと思いますし、もうしばらく、こうした状況は続くのだろうと思います。

ただ、先に結論から述べておくと、私は厳然たる性善説に立つ人間です。ただし、それが目に見えるかたちで証明されるのは、もう少し先の話でしょうし、現在のところ人間に性悪説的な要素があることは、認めなければならない事実だと思います。そもそも、物質世界に生きている人間が、目の前のものや目に見えるものに心を奪われたりする「性悪説的な性質」を持っていることは、仕方がないことだと思いますし、そうした心から発した「欲」が存在することは、私たちがこの物質世界に身を置いている以上、避けられない宿命であるとさえ言えるのではないかと考えます。

ところで私は、そうした性善説と性悪説が混在する過去から現在に至るまでの世界において、人間はうまくその両方を使い分けながら生きてきたと思います。具体的には、性善説的な観点からは「マナー(あるいは思いやり等)」、性悪説的な観点からは「ルール」を適用しながら、問題を解決しつつ、今日に至っているということです。これは社会問題における解決策の本質ではないかと思います。即ち人間は、あらゆる社会問題について、この二つのうち、どちらかを使って解決してきたと考えることができるだろうということです。

近年、あらゆる社会問題(身近では教育・格差・犯罪等、大きくは政治、経済、地球環境等)が急速に深刻化していくなかで、これらをどのように解決していくべきかという問題が、人間にとって極めて大きな課題となりつつあります。そして、このような問題が深刻化していけばいくほど、人間はますます「マナー(性善説)」か「ルール(性悪説)」のどちらかに頼った生き方をしなければならなくなるのです。

現在、目に見えるかたちで表れているのは、各種ルールの制定です。ルールは、一度制定してしまえば、即効性がありますし、すぐ目に見えるかたちで効果が表れるので、非常に使いやすい側面があります。しかし一方で、「問題が起こるからそれに合わせたルールを作り、さらに問題が大きくなるとルールを厳しくし、問題が深刻化すればさらに・・・」といった具合に、ルールに頼った社会作りをしていくと、社会全体がルールに縛られていくことになる点が問題です。

過去から現在に至るまで、社会ルールは秩序を保つという一定の役割を果たしてきましたし、そうした意味で、性悪説的なアプローチによる社会統制は成功を収めてきたと言うことができると思います。しかし、こうしたアプローチに頼った社会作りを進めると、問題が深刻化すればするほど、それに対するルールが必要となり、いずれ人間社会は、ルールによって自らを縛り、身動きがとれなくなることになるということに注意しなければなりません。

また私は、この世の中に絶対的なルールなどは存在し得ず、どのようなルールも、必ず人間の「性善説」的考え方に頼らなければ、暴走するようにできていると考えています(「社会ルールの欠陥」参照)。そのような意味で、問題が深刻化していく過程で、即効性のあるルールに頼った社会作りをしていくことは必然であるとは思いますが、それらも最終的には人間の良心やマナーに頼らなければならないのだろうと思います。つまり、人間が究極の難題を解決するために必要なのは、あくまでも性善説的なアプローチであり、それが問題の本質だと思うのです。

こうしたことから、これから訪れるかもしれない人類最大の危機、究極の社会問題に対して、私たち人類が持つ最終兵器は、マナーや思いやりといった良心であり、これからの社会は、そうした性善説に基づいた秩序によって成り立っていくのではないかと考えます。

現在は未来への途中段階に過ぎませんし、行き着くべき性善説に立脚した社会の構築までは時間があります。またその実現は、大変に厳しいことでもあります(「妥協が許されない理由」)。しかし私たち人類が、もし本当に存亡に関わるような重大問題に直面するとするならば、いずれは「人類の最終兵器」は発動されるでしょうし、その結果として、性善説社会が実現するのではないかと思うのです。

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