簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

北脇縄手(東海道歩き旅・近江の国)

2024-02-05 | Weblog


 蔵元「美冨久酒造」の酒蔵横から北に延びる参道があり、奥には柏木
神社が鎮座している。創建が白鳳期という古社で、古くから「若宮八幡
宮」と称し、柏木荘近隣16ケ村の総鎮守として崇められてきた。

 水口城の築城以降は、歴代城主の守護神・祈願所として崇め、明治4
(1871)年に現社名に改められ、地元では「わかみやさん」と呼ばれ、
親しまれているという。



 趣のある家並みを見せる街道も、この辺り迄で来ると民家は途切れ途
切れになる。
道の両側は視界が開け、遙か彼方が見通せるようになり、広大な田畑の
広がりの中、街道は一直線に西に向かって延びている。



 右手の奥に見える、大小の建物の帯状の連なりは、国道1号線が通り、
沿道が商店などで開けているからだ。その奥の小高い緑の固まりが水口
丘陵であろうか。また左手には野洲川が流れているはずだが、ここから
はその流れを定かに確認する事が出来ない。



 この辺り江戸時代には、「北脇縄手」と呼ばれた松並木の美しい道が
延びていたそうだ。
今でもその痕跡らしい大きな切り株が所々に残されている。

 縄手とは田んぼの中を貫く一本道の事で、東海道の整備に伴い、 曲が
りくねった旧伊勢大路を廃し、見通しの良い今日の姿に変更され「北脇
縄手」と呼ばれるようになったという。
街道を維持する為、近隣の村々に清掃場所が割り当てられていたそうだ。



 そのため、街道は、何時も綺麗に保たれていたという。
「北脇縄手」が見事なまでの直線で続いているのは、元々この辺りの地
勢が起伏に乏しい平坦地だからだ。
沿道に民家も少ないので、随分先の信号機までもが視認できる程だ。
地図で確認しても見附川を渡る辺りから、西に向けてほぼ直線が泉地区
まで延びていて、その距離は3㎞程もある。(続)





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林口一里塚と西の見附(東海道歩き旅・近江の国)

2024-02-02 | Weblog

 百軒長屋跡辺りにも、平入り町屋の美しい町並が残されている。
この辺りまで来ると、新たに出来た武家町を避けて迂回した鍵の手も終
わりが近づいてきて、やがて行く手に、「天照大御神」をお祀りする五
十鈴神社の森が見えてくる。



 藤原時代の長寛2(1164)年に設けられた「御厨」制度により御厨田
の守護神として、また五穀豊穣の神として伊勢皇大神の御分霊を、「福
原大神宮」として称え奉ったのがその創始だ。「五十鈴神社」と改称す
るのは、明治4(1871) 年とされている。(神社由緒書)



 街道に面した境内の一画に、113番目の林口一里塚跡がある。
元々はこれよりやや南方に有ったが、郭内の整備で街道が付け替えられ
たのを機にこの場所に移されたものという。
今は一本の石柱と、説明板があるのみだ。



 そこを出ると西林口で、ここは石橋から移された西の見附跡で、木戸
や番所が置かれていた。
街道を横切って流れている小さな川が見附川である。

 西林口を抜けると旧馬場先村、当時は上り下り立場(旅人の休憩する
場所)があった。



 その先の右側に、当地に蔵を構えて100年という、地酒「美冨久」の
蔵元「美冨久酒造」が有る。

 甲賀地域は、滋賀県の酒蔵の約三分の一が集まる酒処である。
水が綺麗で、米作りにも適した地が、酒造りを盛んにしているらしい。



 水口には他にも北部の工業団地近くに蔵を構える「藤本酒造」が有り、
「神開」が知られていて、地酒が美味しいという。
宿場の東入口に近い「作坂(つくりさか)町」も、元々は「造酒」から
転化したものと言われている程の酒処である。(続)





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