簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
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針文五郎(東海道歩き旅・近江の国)

2024-02-26 | Weblog


 由良谷川隧道を抜けると、「針川村」とも言われた「針村」集落に入っ
て行く。暫く進むと、右手に「針公民館」があり、「ようこそ きづな街
道(東海道)へ」 の看板が掛かっていた。
 建屋の前が「おやすみ処」となっていて、椅子が置かれ、今時分なのに、
ご丁寧にも吸い殻入れまで用意している。



 施設は旧東海道に面している、三雲・妙感寺・吉永・夏見・針・ルモ
ン甲西・中央・平松・柑子袋の9区で構成される「みくも学区まちづくり
協議会」が整備したものだ。平成21年3月に設立されている。



 東は三雲西は柑子袋まで東西6㎞を、「きずな街道」と名付け、東海
道を行き交う人と住人に、心優しいおもてなしのまちづくりをテーマに
『きずな』を高める取り組みを進めているという。
 「おやすみ処」は、大沙川の隧道前有ったが、この先にも一カ所有り、
トイレ等が整備されているので、街道歩きにはありがたい。



 公民館前には、東海道歴史探訪・史跡めぐりマップ、「針文五郎顕彰
碑」案内板があり、「天保一揆」と「針文五郎顕彰碑」の説明がある。

 「天保13(1842)年10月14日から16日、野洲、甲賀、栗太三郡の百
姓が幕府の不法検地強行に対し蜂起したのが天保一揆である。
この首謀者11人が最高裁の江戸送りとなる。



 首謀者と目された針文五郎は、人一倍正義感の強い指導的立場の精農
家で、十万日検地日延べ書持参の罪であった。
 一番駕籠に乗せられたのは文五郎で、道中で既に3名が死亡し、江戸
の白洲でも8名が拷問にあいながらも不法検地を訴え続けたが、全員が
獄死した。
針文五郎は、天保14年4月18日に死亡した。 行年50歳であった。(続)





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