当初200名余しか集まらなかった工女は、操業の翌年には目標の500名
を越えた。こうして集められた工女達は、1日8時間労働の日曜休み。
年末年始とお盆には長期休暇も与えられたという。
その生活は女子の身だしなみとして髪をすかし、おしろいを塗り紅を
さすなど化粧が許され、風呂は毎日入ることが出来た。
場内には診療所も設けられ、外国人医師が駐在した。
質素ながら食事も「賄い所」でとっていたと言うから、医薬品と同様に
官費であったと思われ、待遇面では当時としては画期的な優遇であった。
しかしその仕事環境となると、蒸気で蒸した繭から糸を取り出すには、
風通しの悪い煉瓦造の建物は決して良い環境では無く、おまけに独特な
匂いにむせ返る毎日であったようだ。
しかしそんな環境が工女達を女として磨き上げていた側面もあるという。
日頃から日に当たらない室内作業で、日焼けをした工女はいなかった
と言い、おまけに何時も蒸気を帯びたシルクを扱い、絶えず湿気を浴び
ているとあって、髪のつやも顔色も、町の娘とは比べものにならない美
人揃いであったと言うから興味深い。
そんな状況で努力すれば、仕事内容も変わり、「一等工女」への昇
進も待っていた。工女達の給料は、その腕前により細分化した等級で
支払われていて、1等は一ヶ月1円75銭、2等が1円50銭、3等になると
1円であったと言う。
旧信州松代藩の士族の娘・横田英の回想「富岡日記」には、当時の
工女の生活が様々に綴られていて、その生活を知る上では貴重な資料
となっているのだそうだ。(続)
にほんブログ村
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます