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kusazoushi:Kisanji&Harumachi Ⅰ

2010-07-29 | bookshelf
*****朋誠堂喜三二と恋川春町 1*****
          
 今でこそ「小説家」という職業が確立されていますが、江戸時代には「物書き」は専門職という意識はなく、武士のサイドビジネス程度であったようです。蔦重と組んでベストセラーを生み出した人気戯作者、喜三二と春町も江戸大名屋敷に勤める藩士の一人であってお侍さんでした。私達が(というか私だけなのかもしれませんが)頭に浮かべる「お侍さん」といえば、腰に日本刀を差し髷をゆってキリっとした身なりをした武士の姿ですが、戦国時代から100年以上も経った平和な時代の武士は、町人達と変わらない柔軟な人物になっていたようです。
 争いごとが無いのでしっかり勉学に力を注げたようで、武家だけでなく裕福な商人の子息なども中国の漢文や哲学、日本の古典文学など当たり前のように知識を持っていて、高名な絵師に師事して浮世絵などもたしなんでいました。高い教養と芸術的センスを持ち合わせた武士が閑な時間に草双紙を創作し始めると、それが爆発的ブームになりました。草双紙は絵本でもあるので、絵を描ける者は自画で執筆したものが多いです。
 朋誠堂喜三二は絵は描かなかったのですが、彼の親友の恋川春町(こいかわはるまち:1744-1789年 本名 倉橋格 狂歌号 酒上不埒さけのうえのふらち 小島藩士)は喜三二の挿絵を描いたり自作の挿絵も描いたりしています。上の画像は、春町が黄表紙デビューした1775年(安永4年)鱗形屋(うろこがたや)から刊行された『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』という「金々」ブームの祖になったお話です。金々先生というのは学校の先生や権力者ではなく、賄賂を横行させた金権政治のはしり田沼意次の時代1772~1786年(安永1年~天明6年)の享楽的な世相に派生した流行語で、「スマートで立派な身なり」を「きんきん」と言ったそうです。先生というのは現代でもちょっと立派に見える人に「○○先生~」と呼ぶのと同じような使い方です。
 江戸で一旗揚げようと金村屋金兵衛は田舎から出てきた途中、目黒不動の名物粟餅屋で一服する。餅を待つうちうとうとしてみた夢の中で、彼はさる豪商の養子に迎えられ金々先生ともてはやされ、いい気になって遊び捲り遊蕩の果てに勘当されて途方に呉れる自らの姿を見る。杵の音で目覚めた金兵衛は、人間一生の栄華のはかなさを悟り、そのまま故郷に帰っていった。というどこか教訓めいたお話ですが、大ヒットして金々シリーズになっています。また、この作品は1794年(寛政6年)蔦屋から再板されています。つまり版木が磨耗して再度彫りなおすくらい売れたということがわかります。

 春町のキャラクターは、錦絵技法の大成者・鈴木春信(1725?-1770年 彼の贋作絵師としてスタートした鈴木春重は後に洋風画に転じ司馬江漢として有名です)などの美人画の要素があり、ふっくらした輪郭が親しみやすくかわいらしい絵で、私は好きです。

コメント
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