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kaitai shinsho,first edtion

2010-01-22 | art
日本史で習うので誰でも知っているであろう江戸時代の西洋医学書「解体新書」の初版本を直に見れたときは、胸の鼓動が少し早くなったような気がしました。

 原書はドイツのダンチッヒ医科大学教授・王立科学学士院会員ヨハン・アダム・クルムスが著した医書で、日本へは、ヘラルズス・デイテンというオランダ人が和蘭語に翻訳したものがオランダ商館員によって持ち込まれました。「オランダの腑分け書」として西洋医術に関心を持つ医師にかなりの高値で売られました。そのうちの1冊を前野良沢が蘭学を学ぶ為に入手し、日本の医学の発展の為に西洋医学を学ぼうとして杉田玄白も持っていました。
2人が同じ「ターヘル・アナトミア」を所持していたところから、この2人を中心に「ターヘル・アナトミア」の日本語翻訳事業が始まります。

 全てが「無」からなので(辞書などもなかったし、和蘭語通訳師は口語しか知らなかった)彼らは大変な苦労をして翻訳し(中には誤訳も含まれていたが)ひと通りの翻訳を終了し玄白はそれを出版して世に広めようとしました。

 ところが、江戸時代、特にこの解体新書の翻訳事業が行なわれていた時代は出版物に対する規制が厳しくなっていて、出版する版元も覚悟が必要でした。

 画像には表紙と杉田玄白が自力で訳したとされるいい加減なクルムスの自序の最後の部分と「若狭待医 杉田翼(玄白の本名) 謹訳」と書いて印が2つ押してある最初の部分だけなので、この書を出版した勇気ある版元がどこだか到底知れることはありませんが、「解体新書」は日本橋室町二丁目申椒堂須原屋市兵衛が処罰を受ける覚悟の上に出版販売し、日の目を見たものなのです。

 幕府の反応を見るために、玄白は1773年正月に内容見本「解体約図」を須原屋から刊行しています。これについてどこからも注意がなかったのですが、用心して74年8月に製本した「解体新書」を将軍や老中へ献上し1年間反応を窺って、ようやく安永四年1775年発行許可願いを出し完了しました。
ということで、「解体新書」出版は1774年となっていますが、書店で売られるようになったのはその一年後だったということなのでしょう。

 かくして世に出た日本初の解剖学書の初版本・・・
 本物を間近で見れた感動はひとしおでした。