スターアニスの 『大和路 里の光彩』

アーカイブ中心の風景写真、趣味の書・刻字など・・いろいろと楽しんでおります。

等彌神社・・・散策 ②

2008-01-11 17:22:06 | 出来事





等彌神社(とみじんじゃ)の散策スタートです。

手水舎の亀さんと、由緒ありそうな大きな燈籠、そして万両の赤い実・白い実に迎えられて、本殿に向かいます。 (歌碑・石碑が多いので、後日まとめて紹介します。)


「御祓殿石」と彫られています。この前に立って身も心も御祓いするのです。

「御祓殿石」があります。 お参りする人は、ここで身を清め心を正すところなのでしょうか? この前に立つと、そんな気持ちになるから不思議です。


下津尾社です。

この神社には、上津尾社(上ツ尾社)と下津尾社(下ツ尾社)があると社務所前の案内看板に載っていました。 (桜井市史では「ツ」を使用。) 
最初の階段に建つ「式内等彌神社」の石標を見上げながら進むと、まず右手にあるのが、下津尾社です。
薄暗い中に、佇んでいます。

もともとこの下津尾社の方が、中心だったとか。
そして、この神社の所在地「桜井市字能登」が示すとおり、明治8年に「能登宮」が再建される前は「能登寺」というのが、下津尾神社の前にあったそうです。

拝殿の横から社殿を見ると・・・その扉の欄間には、鵄(とび)が透かし彫りで現されています。

後で、宮司さんに聞くと、皇軍の神武天皇と大和の豪族・長髄彦(ながすねひこ)が戦いをした時、神武天皇が持っていた弓の弓弭(ゆはず。弦をかけるところ)に金色の鵄(とび)がとまり、これを見た長髄彦は恐れをなして、負けたと言う。

この金の鵄(とび)は、橿原神宮の社殿にもあり、また県立畝傍高校の校章にもなっているのです。


下津尾社。玉垣内の社殿の右手が八幡社、左手が春日社。

下津尾社の玉垣内には、拝殿から見て手前にあるのが八幡社(祭神・品陀和気命)で、奥にあるのが春日社(祭神・天児屋根命)なのです。

末社の恵比寿神社。

その拝殿の左隣りには、末社の恵比寿神社(祭神・事代主命)で、この社の前には棟方志功画の歌碑が建っています。 (詳細は後日に・・) 



元の参道に戻りその目の前には、「百度石」と彫られた巨石が表参道と裏参道の分かれ道に、ドンと構えている。




延宝4年、元禄2年、寛政11年・・・・などの燈籠が165基も・・・。

左側の表参道を進みます。
ここまでの参道の両側にも燈籠があったが、この神社には165基もあるというから、凄い。
それも苔がついていたりするから、年代ものに更にハクがつくようで・・・。


上津尾社に上がる階段にも大きな燈籠が・・・。カメラを構えているこの場所が「大とんど」の場所なのだろう。

歌碑・石碑を一つずつ撮りながら、上津尾社へ。
途中に広場があった。15日の「大とんど祭り」が催されるだけのスペースがある。
周りには、赤い鳥居や目立つ石碑があるが、とりあえず大きな燈籠に挟まれた幅広い階段を登って上津尾社へ。


上津尾社。

誰もいないシーンと静まり返った佇まいです。
玉垣内の本殿には祭神の大日靈貴命(おおひるめむちのみこと)(別名:天照大神)が祀られています。


皇室と関係の深いことが窺えます。
拝殿の手前には枯れて根元だけが残された杉の老木があり、その前に皇室の方々の名前が見られます。さすが、皇室のご先祖さん・・・ですね。



そしてまた見つけました。社殿の扉に「弓に乗った『鵄(とび)』」が・・・。
神々しく拝みました。
拝殿にはイグサの座布団が敷かれ、境内にはテントが張られ、まだ正月行事が続いていることを現しています。


桜井弓張神社です。

境内の西北には「桜井弓張神社」(祭神:桜井弓張皇女)があります。
それなりの立派な佇まいです。



上津尾社の境内から、鳥見山(245m)の山頂に向かって斎場山の句碑を経て白庭山の「霊畤」へと道が続いているらしいが、木々が生い茂っているため、途中の歌碑が建つ「霊畤拝所」まで、落ち葉を踏みしめながら歩きます。


登る途中に、鳥見山稲荷神社があり、さらに進むと「黒龍社」という小さな祠がある。


対面に三輪山が水平に見えるのだ。

尾根に辿り着くと、北側の木々の梢の向こうに、桜井市内が一望でき、対面に三輪山が水平に見える。
この山は、神武天皇即位の後、天地の神霊を祭るために築いたところ(「霊畤」という)であり、大孝を申し述べ給うた大嘗会の舞台なのです。
神聖な山の尾根を歩くのは、ちょっと気がひける。

毎年5月13日、鳥見霊時顕彰会により、この「霊畤拝所」で大祭が行なわれているのだ。
どうりで、尾根は何人もが通れる広い道になっていた。


手前の赤い実は何だろう? 霊畤拝所の石碑と万葉歌碑。

霊畤拝所には、大きな石碑と万葉歌碑が建っている。
万葉集・紀鹿人「うかねらふ跡見山雪のいち白く恋ひば妹が名人知らむかも」(伊勢神宮大宮司 徳川宗敬の筆)の歌碑だ。漢字ばかりで読めない・・・・これは、難しい。



ネットでこの「鳥見山の霊畤拝所」を探索していると、ある方のHPに、昔、この等彌神社の宮司さんに聞いたこととして、「霊畤」の場所を宇陀市榛原区の鳥見山にするか桜井市の鳥見山とするか、当時の政府から決めろとのこと。そこで決めたのがこの等彌神社のある鳥見山に・・・ということらしい。
平安時代に戻って、本当のことを確認したいのものだが・・・。


さて、下山することに・・・歌碑などを眺め、苔の緑色に癒されながら・・・ゆっくりと・・・でも、まだ、紹介していない末社などが沢山あるのです。
境内社としては、弓張、恵比寿、金毘羅、黒龍、稲荷、猿田彦、愛宕の7社。そして、桜井市護国神社があるのです。
全ての神さんが揃っておられるのです。まさにオンパレードです。

続きは、歌碑を中心に・・・と思っております。




2 コメント

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Unknown (なりちゃんじいじ)
2008-01-12 00:01:46
こんばんは
石灯籠と石碑がたくさんありますネ、それぞれ歴史が刻まれておるんでしょう
どんな歌碑が出てくるかも楽しみです
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Unknown (のび太)
2008-01-12 14:36:29
大和の豪族・長髄彦(ながすねひこ)・・・・聞いたことがある名前なので調べてみました。東北地方を中心にした歴史書に、「東日流外三郡誌」(つがるそとさんぐんし)なるものがあり、同書によると「古代の津軽地方に、神武天皇との戦いに敗れた邪馬台国の王であった安日彦(アビコ)王とその弟で副王の長髄彦(ナガスネヒコ)王が、東日流(津軽)に落ちのび荒覇吐族(あらはばきぞく)と名乗り津軽を支配した。」と記述されてるようです。 東日流外三郡誌は、真偽をめぐり反響を読んだ歴史書ですが、歴史学的には認知されてないものゝ遠い大和と津軽を結ぶ歴史として興味を憶えてます。
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