スターアニスの 『大和路 里の光彩』

アーカイブ中心の風景写真、趣味の書・刻字など・・いろいろと楽しんでおります。

大和路の「石」⑩ 「高市郡・高取城跡の石垣」

2008-01-21 18:43:44 | 大和路・飛鳥路の「石」を訪ねて

「大和路の石」を求めて、ウロウロしています。
明日香村から離れ、隣の奈良県高市郡高取町にある「高取城跡」に向かいました。
国道169号を南下し、壷阪寺口から山道を登り「壷阪寺」を横目にして進みます。


やがて、「高取城跡まで2.8km」の標識が・・・。
車での行き止まりは、七ツ井戸の下です。
ちょうど、工事用のモノレール敷設工事の最中だった。
3台ほどの工事車両の横に停めさせてもらって、いよいよ本丸をめがけて急な坂道を・・・。


不安定な足元と、今にも崩れてきそうな石ごろに目を向けながら、道に沿って張られたロープに頼りながら一歩、一歩登ります。

よくもまぁ、こんな高い山の上に、こんなに多くの石を持ち込んだものだ・・・と驚きの連続です。


この「高取城」は、1330年代に大和高市一帯を治める豪族・越智一族が、高取山(584m)に砦のような城を築いたのがその始めと言われています。


明治20年頃の大手門より太鼓櫓を撮ったもの(高取町役場資料より)


大和高取城鳥瞰図の一部

恒久的な軍事施設ではなく、非常の場合に軍事権をもつ惣領が一族・郎党を引き連れて立て籠もるための山城なのです。
その後、天正13年(1585)に豊臣秀長の家臣・本多氏と、寛永17年(1640)城主となった植村氏によって大改修され明治維新まで居城が続いたのです。


現在は、豊臣秀長が築いた石垣の一部を残すのみとなっており、山頂に天守閣を築き、27の櫓と33の門で守りを固められていました。


天守閣。

本丸は、大天守・小天守・硝煙櫓・鉛櫓を多聞櫓で連結した天守曲輪の内郭と、一段下に天守曲輪を取り囲む外郭とに分かれた、非常に堅固な縄張りとなっているのです。

天然の地形を活かして難攻不落の壮大な規模の石垣は驚くばかりです。
美濃岩村城、備中松山城と共に日本三大山城の一つで、城内は約10,000m?、周囲約3km。郭内は約60,000m?、周囲約30kmという広大なものです。
財団法人日本城郭協会から平成18年4月6日(城の日)に『日本100名城』に認定されています。



また、司馬遼太郎氏の「街道をゆく」でも、
『高取城は、石垣しか残っていないのが、かえって蒼古(そうこ)としていい。その石垣も数が多く、種類も多いのである。登るに従って、横あいから石塁があらわれ、さらに登れば正面に大石塁があらわれるといったぐわいで、まことに重畳としている。
それが自然林に化した森の中に苔むしつつ遺っているさまは、最初にここにきたとき、大げさにいえば、最初にアンコール・ワットに入った人の気持ちがすこしわかるような一種のそらおそろしさを感じた。』
  「大和・壺坂道 城跡の森」より抜粋


この城の壮大さを歌った歌が『巽高取雪かとみれば雪でござらぬ土佐の城』で、その石碑が建っていました。
城下町から高取山を見上げると、城の白壁で山一面が雪景色をしたように美しく見えたと歌われているのです。



北側を望むと・・・。葛城山方面が・・・。

天守閣のところから遠くの山を眺めました。見晴らしがよくて、南側には高見山(1248m)、大台ケ原(1695m)や吉野連山が・・・。北側には、葛城山(960m)、金剛山(1125m)などが・・・眼下に広がります。

国見櫓からの眺望です。手前に畝傍山、耳成山などが・・・。遠くには、大阪のビル群が見えることもあるとか・・。今回はこの場所には行かなかったが・・。(高取町より転用)


2 コメント

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Unknown (なりちゃんじいじ)
2008-01-21 22:47:41
国指定の史跡のようで歴史が秘められているようですね。明治の写真を見るとその壮大さが判りますね。明治政府も残してくれていればと思いますね
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Unknown (ヒキノ)
2008-01-23 10:27:34
息を切らして山城の上まで、山城は中世から戦国時代までですね。近世で栄えた城は平城になっています。難攻不落の城のようで設計した戦略が偲ばれます。
やはり石垣を見て往時を偲ぶというのがロマンがあっていいのではないでしょうか。
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