スターアニスの 『大和路 里の光彩』

アーカイブ中心の風景写真、趣味の書・刻字など・・いろいろと楽しんでおります。

「朱」に包まれた桜井茶臼山古墳

2009-10-30 00:24:18 | 出来事

既に新聞報道でも話題になっている「桜井茶臼山古墳」の現地見学会に行ってきた。
今日(29日)から31日まで、この古墳の発掘調査に当っている奈良県橿原考古学研究所による見学会で、初期ヤマト政権の大王が眠る石室を見てきた。


▲現地で掲示されていたパネルより。前方部の端が南側になり国道165号に接しており、後円部は北側となり、ちょうど南北に真っ直ぐな形に設けられています。更に、石室も南北に置かれています。


今回の発掘は、昭和24年に行われた最初の発掘調査以来60年ぶりで、当時の埋め戻し状態の調査と、更に埋葬施設の詳細調査と木棺を取り出し保存処置をするために行われたものです。

既に、今年の1~3月に予備調査が行われた際、石室が「丸太垣」で厳重に囲まれていたことが発表されている。この「丸太垣」は、埋葬後に石室上に築かれた方形壇を保護するものなのだとか・・・。


▲パンフよりコピー。点線で囲まれた位置に下記の「丸太垣」が廻らされていたのです。

▲新聞に掲載されていた「丸太垣」の想像図。この中央に石室が置かれていて、埋葬者を守る形になっています。


今回は、石室をむき出しにして、中に入っていた木棺を取り出し、石室周囲の埋葬物調査も行われた。取り出した木棺は、コウヤマキ製であるとか。残っていたのは底の部分から推測して全長6.7mとか。2年ほどかけて保存処理されるため、考古学研究所に持ち込まれており今回は見ることができなかった。
これら発掘の様子や内部の様子が、パネル写真で展示されていた。


▲このような発掘工程の写真パネルが見学通路に掲げられていた。
また、今回の見学案内はテープで、繰り返し放送されていた。


木棺を取り出すために天井石3枚が外され、横に置かれていた。12枚の天井石で、一番大きい石は1.5トンあるそうだ。これらの石は、二上山か淡路島から持ってきた安山岩であろうと言われていた。


▲パンフより。現場では、石に塗られた朱色は、もう少し濃く鮮やかだった。


石の全てと周りの土には朱色が塗られていて、これは水銀朱だとか。大宇陀辺りで採れた水銀が使われたのだろうか?
古代中国では、不老長寿を目指す神仙思想で、金よりも貴重な最上級の「仙薬」とされ、ここで使われている量は、約200㎏とされ、これまでの古墳では一番多く使われていることから、かなりの大王だったのだろう。

60年前、盗掘を契機に発掘調査されたのだが、地元の人たちによると、子供の頃、石室に入って遊んでいたとか。当時は、もっと朱色が濃かったとか。
でも、盗掘されていた割には、三角縁神獣鏡・ガラス製玉・鉄鏃・壷型土器などが出土していて、保存状態も良いと言われていた。


▲板状の石、12枚で覆われていた天井部。1枚1.5トンもあったとか。手前の石などは、朱色が鮮やかに残っていた。

▲上の写真は、埋められていた土器。下の写真は木棺の全景。


桜井市内の古墳は、分かっているものだけで大小5000基あるといわれる。その中でも、この茶臼山古墳は、桜井市外山(とび)にあって、全長200mの前方後円墳で、古墳時代前期に築かれた大型古墳の中では、竪穴式石室が完存し、更に見ることができる最古の古墳でもあるのです。

「朱」に包まれたこの大王は、誰だったのだろうか。昔から「ニギハヤビノミコト」とか「ナガスネヒコ」の墓と言われているが・・・。
目を閉じても、この朱色がいつまでも浮かんできます。

この古墳の前方部東面の敷地ギリギリにスーパーマーケットが建てられたが、すぐに閉店。続いて、ボウリング場。これもすぐに閉鎖。次は食堂だったがこれもまもなく閉店。それ以降、綺麗に整地され、今は空き地となっている。
何を建てても上手くいかない。古墳の祟りでは・・・と噂されたのを聞いている。
やはり、聖地なのかもしれません。


▲前方部から後円墳部にかけて設けられた仮設階段を登る。さらに石室の周りにも仮設の足場を設けて、石室全体が四方から覗くことができるようになっていた。