環境問題と心の成長21

2009年10月08日 | 持続可能な社会





日本的自然感から合理的自然観へ

 日本には伝統的に、自然への没入・一体化に憧れる文化があります。

 そのためかつて「我々日本人は自然を愛する民族だ」という自己イメージがありました(現在でも残っているのかもしれません)。

 ところが、特に戦後の高度成長期にそれに伴って公害が大きな社会問題になった頃には、国際的に「こんなに自然を破壊している民族はいない」と批判されるような状態になりました。

 幸いにしていわゆる環境技術の進歩によって、最近は目立った個別の「公害問題」はかなりコントロールできるようになっているとはいえ、決して全体としての「環境問題」が解決の方向に向かっているとはいえないことは、これまで述べてきたとおりです(第3回に掲載した「問題群としての地球環境問題」等参照)。

 なぜそういうことになるのかを考えてみると、一つには「自然というものは、人間と一体であり、人間をいつも守ってくれる母のような存在だ」という日本の伝統的自然感は、決してエコ・システムと人間社会との関係を科学的に認識できるような合理的自然観ではないからだと思われます。

 つまり、「自然環境には資源と浄化能力に関して限界がある」といった理性的な認識なしに、一方では神話的な「人間が何をやっても結局は受け入れ守ってくれる母なる自然」といった思い込みを持ちながら、もう一方限度を超えた近代産業主義的な経済行動を続けていたら、予想もしていなかったしかし必然的な結果として起こったのが日本の「環境問題」だったのではないでしょうか。

 繰り返すと、いわゆる「環境問題」は、理性以前の、他者や自然環境が差異化できていない呪術的・神話的な段階に戻ることによって解決できるわけではなく、差異化して認識したうえで統合する視点を獲得することによってのみ、解決の糸口がつかめるのではないか、と私は考えています。

 神話的な世界観や呪術的な世界観では、エコ・システムの具体的な仕組みは認識されていません。

 人類は、理性的な自我を確立することによって環境問題を生み出してしまいましたが、同時にそれによって初めて、エコ・システムがどういうものであるかを認識できるようにもなったのです。

 これからほんとうにエコロジカルに持続可能な社会を創り出していくためには、エコ・システムの認識が不可欠であり、さらにそれにどう接していくかという方法の認識や、それを実行できるパーソナリティや、社会システムをどう変えていくかといったことが問題になりますが、それには何よりもまず形式操作―エコロジカルな認識のできる理性的な自我の確立が必要なのだといっていいでしょう。


ヴィジョン・ロジック段階――総合的合理性

 前回まで見てきたように、ウィルバーはピアジェの発達心理学を援用しながら、「自他が完全に混沌とした状態で同一化している状態から、自他がはっきり差異化された状態、自我の確立に達することによって、かえってエゴ中心性がだんだん克服されていく」と捉えていました。

 しかし、ウィルバーはさらに、人間の発達はそこからまだ先があり、先までいかなければいけないと言います。

 人間の意識の発達は合理性―自我の確立で終わりではなくエゴ中心性の克服には、まだその先があるというのです。

 そこから先の高次の段階は、かつて仏教では〈無我〉という言葉で表現されていた段階ですが、ウィルバーは、理性―自我段階の後、ただちに無我的な段階に発達・移行するとは考えていません。

 その前に、個人としても集団・人類としても、人間の意識はもう一段階経ていく必要があると言い、その合理性の次の段階を「ヴィジョン・ロジック段階」と呼んでいます。

 それは、例えば早いところではすでにヘーゲルが唱えた「弁証法的理性」のような、ただ物事の部分おのおのを合理的に見るだけでなく、全体を総合的に展望(ビジョン)するような、より高次の理性のあり方、総合的に世界を捉える認識・論理(ロジック)の段階です。

 具体的には例えば、私にとって合理的―有利かということだけでなく、あなたにとってもそうか、私たちにとってもそうかということを、全体として展望することのできる総合的な理性・論理性の段階を意味しています。


ヴィジョン・ロジックと人類の未来

 今、人類・国際社会の平均水準はとりあえず理性段階になっており、いわゆる先進国は我が国を含めてどこも、社会を営むうえでの建前は理性・合理段階にあるといえるでしょう。

 しかし他方、世界全体として見れば、実際上は合理段階以前の神話段階にあって自国・自民族の神話にこだわっている国も少なくないのが現状です。

 そうした状況で、神話段階にある国はもちろん合理段階に達した国でも、自国中心主義を克服することはきわめて困難です。

 例えば私にとって合理的か、うちの会社にとって合理的かということと、日本にとって合理的かということ、世界にとって合理的かということはレベルがまるでと言っていいほどちがっているからです。

 特に残念ながら日本の小市民は、私・我が家にとって合理的か(得か)、私の所属する組織にとって合理的(利益につながるか)かくらいまで考えるのが精一杯で、日本全体にとって何が合理的かを本気で考える人も多くはないようです。

 まして、人類にとって合理的か、生態系にとって合理的かというレベルまでものを考える人は、これまた残念ながらきわめて少ないのではないでしょうか。(悲観して言っているわけではなく、現状認識です。それが単なる偏見であれば幸いなのですが)。

 ここで注意しておかなければならないのは、自国中心主義を克服するとは、自国を否定することではなく、自国も生きながら、他国も生きられるグローバルな調和のとれた世界とはどんなものなのか、全体的な展望を持つことだということです。

 今、人類が直面している国際金融の破綻から生じた大不況、環境、世界平和などの問題は、まさにグローバルな問題ですから、本音で自国―自民族中心主義を超えてグローバルつまり地球中心主義的に考えることのできる、ヴィジョン・ロジックという意識水準に達している人々、特にリーダーが増えないかぎり、場当たりの対症療法的な対策はできても、本質的で永続的な解決策の構想は不可能ではないかと思われます。

 世界のリーダーの多数が、「我が国の利益」だけでなく、「各国間の利益の矛盾の調整」だけでもなく、「どういうあり方が、我が国にもよく、他国にもよく、生態系全体にとってもいいのか」という発想ができるようになった時に初めて、そうしたグローバルな問題の解決の糸口が見えてくるのだと思われます。

 しかし今のところしばしば開かれる環境に関わる国際会議でも、自国中心主義を克服できない国が多く、「環境も大事だが、我が国の景気の回復のほうが先だ」とか「我が国として貧困を脱することのほうが優先課題だ」といった主張のぶつかりあいと妥協にとどまって、問題の本質的な解決に向かうような結論には到っていないようです。

 そうした個人合理性や特定の集団合理性では、人類はもう先に進めないことは明らかであり、しかも幸い合理性自体の中にそれを超える要素がすでにあって、それをグローバルに使うだけで、意識のもう一つ先のステップまで進むことができる、人間の意識はヴィジョン・ロジック段階まで発達する可能性をもともと持っている、とウィルバーは言っています。

 そういうふうにウィルバーは、心の発達段階を飛び越えた覚りの話をせず、順序として、まず理性の確立、そして次はグローバルな理性の確立が必要だと言っています。

 ともかく人類の平均的水準は、まだ先進国でも建前が合理性になったという段階であり、国民全体が合理的に考える能力を身に着けているところまでいった国は少ないようです。

 日本もいちおう建前は合理性ですが、国民の意識水準はなかなかそうなっていません。

 しかし幸い北欧諸国のように、国民の相当多数が合理段階に達しており、すでにヴィジョン・ロジック段階まで達したリーダー群を持っているのではないかと推測できる国もすでに存在しています(典型的には1972年国連人間環境会議以来のスウェーデンの国際的発言と行動を追ってみるとそう推測できます)。

 ともかく、人間・人間集団の意識が、個人合理性や国家合理性ではなく、世界合理性、生態系合理性のところまで展望できる合理性、ヴィジョン・ロジックの段階に進化することによってしか、グローバルな問題の解決のめどはつかないでしょうし、そこまで達するには確かにさまざまな困難があるのですが、幸いにして個人レベルでも国家レベルでもまちがいなく希望はある、と私は考えています。



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2 コメント

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感想 (宝槻 広)
2009-10-11 05:10:59
ヴィジョン・ロジックについて、大変参考になりました。問題は、ヴィジョン・ロジックの確立とその普及かと思われます。それについて、今後ご教示いただければと思います。
返信する
ヴィジョン・ロジックの普及 (おかの)
2009-10-13 10:32:43
>宝槻さん

先日はシンポジウムにお出かけいただき、有難うございました。

ヴィジョン・ロジックの普及については(それだけではありませんが)、ブログの「いのちの意味の授業1コスモロジー」などのような内容を私の研究所の講座や大学で伝えています。

これまでも一定の教育効果は出ていると思っています。

しかし、現代の若い世代の精神的なひ弱さを見ていると、これだけでは足りない、さらなる工夫が必要だと痛感しています。

ご参照いただき、またコメントをいただけると幸いです。
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