ふつうの人間の心は、煩悩でいっぱいです。
唯識では、マナ識の4つの根本煩悩から意識には6つの根本煩悩が生まれる、とされています。
(どちらも「根本煩悩」と呼ばれているのでまぎらわしいですね。確かにそれぞれ根本的ではありますが、できれば用語の使い分けをしておいてくれるとよかったんですが。)
そこからさらに20もの随煩悩(ずいぼんのう)が派生する、といいます。
この煩悩の話はとても聞きづらい部分で、かつてここを聞いてすっかり憂鬱になってしまわれた方もありました。
ここだけで終わりなら、まちがいなく憂鬱、どころか絶望しそうなほど、深刻でしかも正確な人間洞察がなされています。
しかし、人間の意識には善なる心も働く――こともある――のです。
唯識は、そこのところも公平に見ています。
善の心の第1にあげられているのは、「信(しん)」です。
これは、従来、仏教の内外で誤解されてきたような、「イワシの頭も信心から」ということわざのような何かをたとえウソでも「信じ込む」という意味ではないようです。
「信」とは、自分の都合や偏見を離れて、真実なことは真実、偽りは偽りとして、素直に認める、そして真実であると認めたらそれを信頼する、さらに真実なことを誠実に実行していく、といったことを意味しています。
そこで、私は現代語訳としてはいちおう「まごころ」と訳していますが、それでも不十分です。
理性、心情、意思のすべての面で、誠実に真実なものに直面するということですから、「真面目さ」と訳すこともできるかもしれません。
ばらばらコスモロジーという錯覚のおかげでニヒリズム-エゴイズム-快楽主義に陥っている現代日本の文化状況の中で、もっとも流行らなかった「真面目さ」こそ、善なる心のもっとも最初にあげられているものなのです。
ここで、確信をもって予告してもいいと思いますが、日本が滅びるのでなければ、これから真面目が流行するはずです。
私たちは、コスモスのほんとうの姿が無限のつながりとかさなりで成り立っていることを知ると、私たちは真面目になり、まごころをもって、誠実に生きるほかなくなるからです。
斜めにかまえて、「オレは何も信じない」などとうそぶいているのがカッコよさそうに見えたのは、もう古いのです。
もちろん、やみくもに信じ込むのはそれよりもっと古かったわけですが、本当の意味での「信」は、これからもっとも新しい、美しい心のスタイルとして認められるようになるでしょう。
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利己的になろうとしても、なれない。
利他行に目覚めた生き方が現成する。
あくまで分別知の見解ですが、これを道元禅師的に言えば、「莫作の力量」が現成するといえるのかなと思いました。
ワークショップで先生から真面目の意味と大切さを教えていただき、とても救われたことを思い出しました。
以前書いた、記事をTB致します。
よろしくお願い致します。
真正面から挑戦するしかありません。自分の顔・面と目を真直ぐ前に向けて、前進!
真面目で、真剣にやっている奴は説得力があり、かないません。
学生時代、最終的にリスペクトされるのは、そういう人物だというのを、感じました。
しかし、分かっちゃいるが、なかなか真面目になれない。
わざと腐る者のが、今のスタンダード。
みんなかっこ悪いと思いつつも、やめられない。
残念。
ちなみに、僕は恥ずかしがりやなので、真面目に茶化すのが、好みです。