小雨に濡れる東寺の五重塔
六波羅蜜の最後は、「智慧(ちえ)」です。
人間の心の病の根本的な原因は「無明」ですから、無明が除かれて智慧に変わることが根本的な治療であることは、これまでお話ししてきたことではっきりしたと思います。
これまで無明を智慧に変えるための5つのトレーニング・メニューをご紹介してきましたが、おもしろいことは、無明を智慧に変えるためのメニューそのものの中に智慧が含まれているということです。
唯識では、人間は生まれつき――前世から引き継いで――アーラヤ識の中に無明の種子を持って生まれてくると考えられています。
現代風に言い換えると、言語を使った分別知を持つようになる遺伝的な素質といってもいいでしょう。
それに加えて、生まれてこの方ずっと言葉による分別知の教育を受け、それもアーラヤ識の中に記憶として蓄えられていきます。
そういう先天的および後天的原因によって、私たち人間は分別知のかたまりとして育ってきます。
その中でも重要なのが、自分が実体であると思い込む無意識の中の分別知のかたまり、つまりマナ識です。
アーラヤ識とマナ識という深くて広い心の領域が分別知のかたまりなのですから、意識や五感がそれにコントロールされて分別知的な働きしかできないのは、当たり前といえばあまりにも当たり前です。
ところが、不思議なことに、人間の意識は、分別知とは違うものの見方を教えられるとそれなりに理解することもできます。
「分かる」という言葉がみごとに表現しているとおりどこまでも分別知でありながら、しかも分別を超えた智慧について理解することができるのです。
心のトレーニング・メニューである六波羅蜜の1つとしての「智慧」は、まず言葉を超えた究極の智慧に到るための手段としての言葉による智慧から始まる、といっていいでしょう。
すでに私たちが学んできたつながりコスモロジーや縁起や空という考え方が、そういう言葉による「智慧」にあたります。
しっかり聞いて理解し、よく自分で考えて納得するというプロセスを繰り返し繰り返しやっていると、そのカルマが種子となってアーラヤ識に熏習されていきます。
アーラヤ識に熏習された、いわば蒔かれた種はやがて芽を吹いて意識に上ってきます。
意識からアーラヤ識に熏習される時と、アーラヤ識から意識に芽吹いてくる時のどちらの時にもマナ識を浄化していく、という好循環のプロセスについては「煩悩から覚りへ:悪循環を好循環に変えればいい」のところでお話ししたとおりです。
しかし縁起や空、つながりコスモロジーという考え・思想は、どんなに深くアーラヤ識に熏習されても、やはり分別知というところを超えられません。
それを超えるのが「禅定」という方法なのでしたね。
分別知によって分別知を超える「智慧」を学ぶことと並行して、禅定によって無分別の世界そのものを直接に体験し、無分別というカルマの種子をアーラヤ識に熏習することが不可欠なのです。
もちろん、他の4つの波羅蜜の種子も熏習していく必要があります。
それらの種子の総合的な力によって人間の心は、5つの段階を踏んで徐々に徐々に、八識から四智に転換していくわけです。
……というと、六波羅蜜の6番目としての「智慧」には6分の1の大切さしかないと思う方もあるかもしれません。
確かにそういう面もあるのですが、人間が「言葉を使って生きる動物」であり、意識的な存在であるという点からいえば、言葉によって意識的に分かる智慧には決定的な重要性があります。
人間は、言葉による智慧によって言葉を超える世界を分かることができるからこそ、言葉を超えた体験をしたい、しなければならないことも分かり、そのための方法としての六波羅蜜の意味も分かり、実践しようという意志を抱くこともできるのです。
特に「資糧位」から「加行位」にかけて、この言葉による智慧をしっかり学び、身に付けていくことが必要です。
資糧位の菩薩のみなさん、治りたいのなら、リハビリ・メニューをこなしましょう。
成果をあげたいのなら、トレーニング・メニューに取り組みましょう。
言葉による智慧の復習も、毎日の大切な心磨きの1つです。
ネット学生のみなさん、ブログ記事や私の本などをぜひ繰り返し読んでください。
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分別知と無分別知、双方向による働きかけが大事なんですね。
生まれたときからアーラヤ識に分別知を受け入れる素地を持っているということ、こりゃそうとう頑固ですね・・・。これはもしかして、キリスト教で言う原罪にも近いかなと思いました。確か先生が指摘されていたと思いますが。
リハビリ、トレーニング、頑張ります!
それではとりあえず朝の暁天坐禅やってきます♪