ヒトはなぜ戦争するのか――ウクライナ侵攻という状況の中で

2022年03月13日 | 戦争

 *ウクライナ侵攻という危機的な状況の中で感じ考えていることを、『サングラハ』誌の第182号の「近況と所感」に書きました。状況が状況なので、たくさんの方に早く読んでいただきたく、刊行に先立って本ブログに掲載することにしました。

 

 「近況と所感」

 

 少しずつ暖かくなってきて桜の季節が近づいていますが、とても残念なことにのどかな気分にはなれない時代になってしまいました。……

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 ロシアがウクライナに侵攻し、戦争が始まってしまいました。多くの方同様、筆者もまさかここまでのことが起きるとは思ってもいませんでした。日を追うにつれ事態が深刻化していて、心が痛みます。

 亡くなられた方々のご冥福、避難を余儀なくされた方々、残って戦っている方々のご無事を心から祈ります。

 できるだけ慎重に情報を確認した範囲で――例えば侵攻を始める前にプーチン氏が書いた論文なども読んでみましたが――ロシアの侵攻に大義はまったくなく、ただちに戦争をやめるべきだ、と筆者は考えています(読者のみなさんがどう考えるかは、もちろん思想の自由の問題です)。

 これから、まず当面、コロナ感染症のパンデミック、さらには気候変動など環境破壊を止めるために、人類が一丸となって対処しなければならない時期に、大国主義・自国中心主義で隣国に戦争をしかけるなど、何という考え違いでしょう。人類は、今、戦争などしている時ではないと思います。

 これが第三次世界大戦にまで拡大しないこと、一日も早く平和が戻ることを切に祈らずにはいられません。

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 日本の一市民である私たちは、きわめて残念ながら微力で大きなことはできないかもしれませんが、人間には主観的な解釈を伴わない〈純粋な事実〉を把握することはできないということを自覚しつつも、できるだけ先入見で特定の立場に偏ることのないよう注意しながら、確からしい「事実」を知る努力をすること、可能な範囲でいろいろな方法で意思表明をすること、ささやかでも人道援助に協力すること、そして真心から祈ることはできる、と考えます。

 今回の「近況と所感」も、筆者のささやかな意思表明の一部です。参考にして、みなさんもご自分でお考えいただけると幸いです。

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 前号の「近況と所感」で、「振り返ってみて、『人はなぜ争うか』『人はなぜ死を恐れるか』という大きな問いについての『徹底的な探究』は自分で納得できる程度にはできたかと思っています。ではどうしたらいいのかという答えも、ある程度まで明らかにできたと考えています。」と書きました。

 書き洩らしましたが、「人はなぜ自然を破壊するか」についても同様です。

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 改めて「人間はなぜ死を恐れるか」「人間はなぜ戦争をするのか」「人間はなぜ自然を破壊するか」と問いなおしてみると、答えはある意味できわめて単純明快で、どの問いに対しても、さまざまな理由はあるにしても根本的には「無明(むみょう)=分別知(ふんべつち)の心があるから」というのが、筆者が到達している答えです。

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 まず、なぜ死を恐れるかについて、改めてこれまでお伝えしてきたことのまとめを述べておきたいと思います。(略)

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 「人間はなぜ自然を破壊するか」についても、簡略に述べておきます。(略)

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 今回は、現に戦争が行なわれている状況に関わって、「人間はなぜ戦争をするのか」というテーマについて、やや詳しく述べておきたいと思います。 

 テレビのロシア侵攻の報道を見ていると、「二十一世紀にこんなことが起こるなんて……どうして?」という嘆きと驚きの入り混じった声がしばしば聞こえます。

 筆者も最初は、あまりにも想定外で、まったく同感のところがありました。

 ソ連、東欧の崩壊で東西冷戦が終わり、新自由主義市場経済のグローバル化で世界は経済的には一つになって、局地的紛争はあっても、今回のような大きな戦争は起こらないだろう。人類の課題はたくさんあるけれども、早急に解決すべき最大の課題は、自分たちの生きていく基盤である環境を自分たちが破壊しているという環境問題だ、というふうに思っていたのです。

 とはいっても、最近は、世界で民主主義国家よりも専制主義国家のほうが増えてきていて、これも大問題だとは思うようになりましたが、まさか大国の指導者が大きな戦争を起こすとまでは思っていませんでした。

 山内昌之・佐藤優『第3次世界大戦の罠――新たな国際秩序と地政学を読み解く』(徳間書店、二〇一五年)といった本も見てはいたのですが……まさか?と思ってきたのは、極限的な危機は起こらないと思いたいという心情、いわゆる「正常性バイアス」かもしれません。

 そのために、「今頃、どうして?」という思いが起こったのですが、改めて学び考えてきたことを再確認すると、「どうして?」という問い・驚きは消えていきました。

 つまり、「有史以来、二十一世紀になっても、〔ロシアも含む〕人類は総体として無明=分別知を克服できていない。そのために、こんなこと・戦争を起こしてしまうのだ」と再確認したのです。

 戦争には、いろいろな理由があるでしょうが(それについては、松本武彦『人はなぜ戦うのか――考古学からみた戦争』中公文庫、二〇一七年、原本は二〇〇一年、が非常に参考になりました)、もっとも核心的には「自分たちの集団と他の集団がそれぞれ分離独立した実体であり、さまざまな意味での実体的利害が対立している。そして自集団の利益を守るのは当然だ。そのために他集団を攻撃し、場合によって抹殺してもやむを得ない、あるいは当然だ」という「思い・思い込み」から起こると考えられます。 

 人間は、何も思わず行動することはありませんから、何も思わず戦争をしかけるということもありえません。必ず何かを思って戦争をしかけるわけです。

 その場合、当然ながら、自分たちと他の人々が、例えば、宇宙エネルギーとして完全に一体であり、単細胞微生物という共通の先祖から分岐した同じ一つの生命の樹の枝であり、人類としても同じ先祖からいのちを受け継いだ親戚として一体だという、さまざまなレベルでの一体性という〈〔非常に確からしい〕事実〉には思い到っていないでしょう。きわめて残念なことですが、意識的には無知、無意識的にも無明という心の状態です。

 もちろん具体的な戦争には、他のさまざまな複雑な要因が絡まり合っていることもまちがいありませんが、無明=分別知から生まれる自己集団中心主義こそが、戦争の原因の核にあるものだ、と筆者には思えます。 

 こうしたことを考えていると、いつも聖徳太子『十七条憲法』の第一条を思い出します。

 「平和をもっとも大切にし、抗争しないことを規範とせよ。人間にはみな無明から出る党派心というものがあり、また覚っている者は少ない。そのために……近隣同士で争いを起こすことになってしまうのだ。(和をもって貴しとなし、忤うことなきを宗とせよ。人みな黨(とう)あり。また達(さと)れる者少なし。ここをもって……また隣里に違う。)」

 区別はできても分離しておらず、つながって一つである自他にとって、平和こそもっとも大切なことであり、長い目で見れば争うことは自他にとって利益にならないにもかかわらず、なぜ人間は争い合うのか、短い言葉でみごとに言い当てていると思います。

 原文の「人みな黨あり」の「黨」は「尚」と「黒」の会意文字で、人間の心がいまだに黒いつまり無明の闇に閉ざされていて、自己実体視・自己中心視があり、それが集団化すると自己集団実体視・自己集団中心視になることを意味しています。

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 今起こっていることは、唯識心理学でさらに明快に解析することができると考えます(*唯識心理学についてより詳しくは当ブログの記事を参照してください)。

 人間は、心の底(アーラヤ識)に蓄えられた言葉とりわけ名詞(例えば国家、民族)・代名詞(例えば、私、私たち)・固有名詞(例えばプーチン、例えばロシア)を使ってものごとを認識するため、自他を含むすべてのもの(物・者)が非実体・空・一如であることがまったく見えておらず(①我癡・がち=無明)、それどころかすべてのものが分離した実体だと思い込み(②我見・がけん)、そのため他と分離した実体としての自分が拠りどころ・中心だと思い込み(③我慢・がまん)、その結果それに過剰に執着します(④我愛・があい)。

 心の奥(マナ識)の四つの根本煩悩が、自己中心主義の根っ子であり、それが集団化したものが自集団中心主義・集団的エゴイズムだと考えてまちがいないでしょう。

 そして、集団的エゴイズムこそ、すべての戦争のもっとも深い原因・根源だと思われます。

 人間は、心の奥深く(マナ識)で、宇宙ではすべてのものがつながり合いながら(縁起)、ダイナミックに働き合っていて(無常)、決して分離した実体ではなく(無我)、究極のところ言葉を超えて一体である(空・一如)ということにまったく気づいていないために、エゴイズム、集団的エゴイズムに陥りがちで、実際、有史以来繰り返ししばしば陥ってきたようです。

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 最近、宇宙史と人類史を一つながりで捉えようという試みが大冊にまとめられた『ビッグヒストリー われわれはどこから来て、どこへ行くのか 宇宙開闢から138億年の「人間」史』(明石書店)という本を読みながら、改めて、人間は文明史が始まって以来ずっと戦争をしてきたのだなと再認識しています。

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 深層・無意識に深く根付いたエゴイズムが個人同士のいさかいから戦争まですべての争いの根源だと考えられますが、それが表層・意識に上ってきて、実際にどんなふうに働くかということについても、もう少し解析しましょう。 

 他と自分がつながって一つだとは思ってもおらず、自分が中心つまりいちばん大事だと深く思い込んでいますから、自分と利害やイデオロギーなどが一致している時には他の権利もある程度は尊重できるのですが、それらが一致していないと思うと、とたんに他の権利や尊厳はどうでもいいことになってしまいます。

 無意識の煩悩から、意識上にも煩悩として、まず他集団の権利を無視しがちな領土や権益などへの過剰な欲望(貪・とん)が発生します。

 そして、実体視・絶対視された自集団の領土や権益などを脅かすと思えるものにはいつでも過剰な怒りを起こしうる過剰な自己防衛-攻撃の心(瞋・しん)も発生します。

 縁起・無常・無我・空・一如といった全存在的・宇宙的な事実、宇宙的な一如・一体性の現われとしての人類の一体性という事実について、無意識的にも無明であり意識的にもまったく無知(癡・ち)です。

 せめて意識・考え方・知としてだけでも、すべてのもののつながりと一体性を認識していたならば、安易に戦争に走ったりはしないはずなのですが。

 そして、深層の無明と意識的な無知のため、自分・自分たちが究極の拠りどころであり中心だと思い、誇りにこだわり、偉大だ、最高だ、絶対だと思いたくなります(慢・まん)。

 大国主義は、そうした慢の心が集団化・政治化したものだと考えてまちがいありません。

 そして、そういう自分の思い込みを指摘してくれる他からの助言や忠告があっても、最初から信用せず疑って聞こうとしないという基本姿勢(疑・ぎ)があります。

 現代的に言えば、情報収集のシステムに最初から偏り・歪みがあって、客観的で公平で正確な情報を採り入れない・できないのですから、判断にも歪み・誤りが生じるのはあまりにも当然です。

 そして、自分と自分の地位や権力や所有、および自国は永遠である・であるはず・であらねばならないと信じ込みます(辺見・へんけんの中の常見・じょうけん)。

 自分・自分たちの考え・イデオロギーは絶対に正しいと信じ込み(見取見・けんしゅけん)、自分たちのやり方・習慣・倫理等が絶対に正しいと信じ込んでいます(戒禁取見・かいごんしゅけん)。

 そのようにマナ識の根本煩悩を根として意識にも煩悩が生まれ、それがさらに具体的な出来事に会った時、現象的な煩悩=随煩悩が働きます。

 他と分離した自分を拠りどころ・中心だとする思い込み(我慢・がまん)からは、分離した自分と他を比較して自分が上だと思いたいという心(慢・まん)が働き、実体視された自分・自分たちを過剰に誇って、偉大だ、最高だ、絶対だ、世界の中心だといったふうに思い込みます(憍・きょう)。

 大国やその独裁者の傲慢さは、唯識的に解析すると我慢から慢、慢から憍が発生しているということです。

 実体視された領土や権力や権益などなどは、まさに実体であって変化してはならないものだと信じ込まれており(常見)、もし損なわれた、あるいは脅かされていると思うと、過剰な自己防衛・攻撃の心(瞋)が具体化して怒り(忿・ふん)になります。

 瞋から忿が発生すると、ほどんど同時に「〔我々とは分離し対立している〕あいつらをやっつけてやる」という攻撃の心(害・がい)が発生し、それが集団的に行動外化(アクティングアウト)されてしまったものが「戦争」だと解析してまちがいないと考えます。

 そのように集団的エゴイズムから発生した戦争では、権力・権力者は、自己実体視・絶対視している、つまり自分は絶対に正しいと思い込んで、のぼせ上っています(掉挙・じょうこ)から、冷静・理性的になって正しい知識・情報を得ようとはせず(不正知・ふしょうち)、自ら反省して間違っているのではないかと思うこともなく(無慚・むざん)、社会的・世界的常識に照らし世論に耳傾けて反省することもなく(無愧・むき)、ありとあらゆる方法で、不正な事実を隠そうとし(覆・ふく)、ごまかそうとします(誑・おう)。

 そして権力者の周辺では、本当はまちがっているのではないかと思いつつもエゴイズム的自己防衛のために権力・権力者に追従するという心(諂・てん)が、悲惨なまでに普通に見られます。

 筆者の知るかぎりでのすべての独裁国家で、悲しいまでにありふれた随煩悩の現象です。

 いや、建前上民主主義国家でも、程度の差はあれ、こうした随煩悩は相当にあるように筆者には見えます。

 凡夫にも程度の良し悪しは明らかにあるのであり、したがって凡夫が作っている国家にも程度の良し悪しはあり、その程度は重要ですが、凡夫であるかぎりマナ識の根本煩悩、意識上の根本煩悩、そしてさまざまな随煩悩が働くことは、悲しむべきですが避けられません。      

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 前号でサングラハ心理学研究所創設の目的について改めてお伝えしました。

 何よりも「どうしたら、人間すべてが、自分自身とも他者とも自然とも調和した、『仲よく楽しく生きて楽に死ぬ』 ことができるような生き方に到達できるか、徹底的な探究を試みること」でした。

 そして、もう一度『十七条憲法』第一条の言葉を引用すると、「人みな黨あり。また達れる者少なし。ここをもって……また隣里に違う」。つまり原理的に言えば、「無明=分別知がある限り戦争はある」ということです。

 しかし、ということは、「無明=分別知がなくなれば戦争もなくなる」ということでもあります。

 唯識的に言えば、八識(はっしき)から四智(しち)の心への転換を遂げた人が多くなれば、特にリーダーたちがそうなれば、恒久的な世界平和が成立する可能性が高まるのは確実です。

 どんなに遠い話に見えても、理想論に聞こえても、有史以来人類が抱えた同種間の集団的・意図的な殺し合いつまり戦争という問題を根源から断つには、そういうシナリオしかないのではないか、と筆者は考えてきましたし、今回の戦争でその思いをいっそう深くしています。

 前号では、「問題山積という状況は、『陰極まれば陽に転ず』というプロセスの陰がまだ極まっていないということでしょう」と書きましたが、激化する気候変動と特に今回の戦争は、いよいよ陰が極まりつつある徴かもしれません。

 ここでなるべく早く、気づいた人から、意識の変容を目指しつつ、同時に社会システム・世界システムの変容にも取り組み、陰を陽に転じさせることが強く望まれるのではないかと思います。

 最後に、何度もご紹介してきた『大般若経』の言葉を私訳を付けてまた引用させていただきます。

 

  成熟有情厳浄仏土(じょうじゅくうじょうごんじょうぶつど)

 

  〔自分も含む〕人々〔の霊性〕を成熟させ、美しい仏の国を建設しよう。

 


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