菩薩の広大な意志:唯識のことば31

2017年03月02日 | 仏教・宗教

 広大な意志は、菩薩は数大カルパかけてこの上ない悟りを得ていくのだが、そうした時間を一瞬とする。

 菩薩はそうした時のなかで、一瞬一瞬に身命を捨て、ガンガー河(ガンジス)の砂の数に等しいほどの世界のなかに満ちている七種類の宝を捧げて如来に供養し、発心してから究極の清らかな悟りに悟入するに到っても、この菩薩の布施の心はなお満足しない。

 このように多くの時の一瞬一瞬に、三千大千世界に明るい灯を満たし、菩薩はそのなかで歩き、止まり、坐り、臥すことについて四つの威儀を保ち、一切の生命を維持するために必要なものがないときにも、菩薩は、持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の心をつねにありありと修行し、究極の清らかな悟りに悟入しても、この菩薩の持戒・忍辱などの意志は満足しない。

 これは飽き足りることのない心であって、これを菩薩の広大な意志と名づける。

                         (摂大乗論第四章より)


 私たち現代人の多くは、外界と分離した個人としての自分の身心だけが自己だと深く思い込んでいます(私もふと気づくとしょっちゅうそういう思い込みに退行しています)。

 しかし、唯識や道元・正法眼蔵やコスモロジーを学べば学ぶほど、〈自己〉は個人としての身心に限定されるのではなく、全コスモスこそが〈本当の自己〉であることを深く納得していきます。

 菩薩は、まだそのことを心の奥底まで覚った人=仏にはなっていないが、それを目指して修行している人です。

 そしてあるレベルまで行った菩薩は、完全ではないにしても、そのことに目覚めていますから、彼のタイム・スケールの感覚は、私たちの個人的な時間感覚とはまるで違うのです。

 数大カルパという個人にとっては想像を絶するような長い時間も、菩薩のコスモス大の意志にとっては、一瞬です。

 しかもそういう数大カルパであり一瞬でもある時間において、何度でも繰り返し個人としての命を捨てて、覚りの源泉である如来に献身し続けるのです。

 さらに、個人としては完全に行きづまり、生命を維持する手段が一切なくなった時でさえ、なお六波羅蜜を修行して止まないといいます。

 それどころか、個人の心の安らぎや満足の目標としてはそこで終わりになるはずの覚りを得ても、それでも満足をしないというのです。何というしつこさ、強烈さでしょう。

 「これは飽き足りることのない心であって、これを菩薩の広大な意志と名づける」といわれています。

 菩薩がこんなにも大きなスケールの意志をもつことができるのは、個人としての自分は実はコスモスの一部であり、自分が修行することは、一三八億年かけて持続しているコスモスの自己組織化・自己意識化の運動、つまりコスモス自身の修行の一部だと深く了解しているからです。

 ちょっとした苦しみで挫折するような志や意志は、志・意志とはいわない、このくらいのスケールの意志であってこそ、ほんとうの意志というのだ、ということばを聞く時、私たちは、身震いするような畏怖の念とともに、しかし私たちへの熱い期待と慈しみを奥底に秘めたコスモス・如来の叱咤激励の声を聞くのではないでしょうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする