大乗の菩薩とは何か 7

2015年04月26日 | 仏教・宗教
 今回は、大乗の菩薩の三十の誓願の第二十六願から第三十願までです。

 第二十六願は、大乗の目指すのは小乗(声聞乗、独覚乗)とは別に大乗(あるいは仏乗)という派を立てることではなく、ただ一乗だということです。
 これは、より広く言えば、宗派間の分裂や対立を超えたいということであり、さらには宗教間の分裂や対立をも超えたいということです。
 これは、人類にとってきわめて困難ではあっても、必須の課題です。

 第二十七願で言われている「増上慢」とは、覚ってもいないのに覚っていると思い込んでいること、究極の真理をつかんでもいないのにつかんでいると言い張ることです。
 自分たちが最高、さらには唯一絶対と主張するのは、大乗の眼からみると「増上慢」であり、そうした増上慢が克服されないかぎり、宗派間、宗教間の対立・抗争はなくならないでしょう。
 菩薩は、そうした増上慢のない世界を創り出すことを悲願として精進し続けるのです。

 第二十八願は、自分の衆生を照らす光と照らし続けるいのちを無限にし、それを伝える人すなわち僧の数も無限にして、すべての衆生を洩れなく救いたいと願です。

 第二十九願は、自分が救いの働きをする領域・国土を限定することなく、宇宙大に拡大したいという願です。

 第三十願は、以上の願を実現するには長大・遠大・膨大な時間がかかり、実に多様な工夫が必要だが、それらすべてが空すなわち一体なる宇宙のことだと気づくと、それはまったく厭う必要も恐れる必要もないことだ、としっかり認識する必要がある、その心がまえ・覚悟を確立しようという願です。

 常識からすれば、こうした三十の誓願は誇大妄想的に大きく高い理想です。

 しかし、そこまで大きく高い理想を持ち、実現のために果てしなく働き続ける決心をし、そのことを書き残した『摩訶般若波羅蜜経』の著者である菩薩――覚りを求める人――がいたことは、歴史的事実でしょう。

 そうした人のメッセージに接して、「そんなこと、とても無理だ」と思うか、「及ばずながら、私もそうありたい」と思うか、それはそれぞれの自由だと思いますが、私個人としては、「まったく及ばずながら、それでも……」と思っています。



 〔第二十六願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生に三乗(声聞・独覚・仏)があることを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私が仏になった時には、私の国土の中の衆生には二乗という名称もなく、純一に大乗のみであるようにしようと。そうすることで、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生に三乘有るを見て、當に是の願を作すべし。我れ佛と作る時、我が國土中の衆生をして二乘の名も無く、純一大乘ならしめんと。乃至一切種智に近づく。

 〔第二十七願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、衆生に増上慢があることを見たならば、まさにこのような願を立てるべきである。私が仏になった時には、私の国土の中の衆生には増上慢という言葉さえないようにしようと。そうすることで、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、衆生に増上慢有るを見て、當に是の願を作すべし。我れ佛と作る時、我が國土中の衆生を増上慢の名も無からしめんと。乃至一切種智に近づく。

〔 第二十八願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、この願をなすに際して、もし私の光明・寿命に制限があり、僧の数に限りがあるならば、まさにこのような願を立てるべきである。私は六波羅蜜を実行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の光明・寿命に制限がなく、僧の数に限りがないようにしようと。そうすることで、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩六波羅蜜を行ずる時、是の願を作すに應じ、若し我が光明壽命量有り、僧數限有らば、當に是の願を作すべし。我れ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し。我れ佛と作る時、我が光明壽命量無く、僧數限無からしめんと。乃至一切種智に近づく。

 〔第二十九願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、この願をなすに際して、もし私の国土に限りがあるなら、まさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で六波羅蜜を実行し、私が仏になった時には、私の一国土をガンガーの砂の数ほどある諸仏の国土のようにしようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、六波羅蜜を完成し、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に、須菩提、菩薩摩訶薩は六波羅蜜を行ずる時、是の願を作すに應じ、若し我が國土量有らば、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ六波羅蜜を行じ、佛國土を淨め衆生を成就し、我れ佛と作る時、我が一國土をして恒河沙等の諸佛の國土の如くならしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩是の如きの行を作して、能く六波羅蜜を具足し、一切種智に近づく。

 〔第三十願〕

 また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が六波羅蜜を実践する時、まさにこのような思いを持つべきである。生死の道は長く、衆生の性質は多様であるけれども、その時にこそ次のような正しい思いを持つべきである。生死の果ては虚空のようであり、衆生の性質の果てもまた虚空のようであって、その中に実体としての生死往来もなく、また解脱する者もいないのだと。菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで、六波羅蜜を完成し、一切の相を知る智慧に近づくことができるのである。

 復次に須菩提、菩薩摩訶薩は六波羅蜜を行ずる時、當に是の念を作すべし。生死の道長く、衆生の性多しと雖も、爾の時應に是の如く正憶念すべし。生死の邊りは虚空の如く、衆生の性の邊りも亦虚空の如し、是の中實に生死往來無く、亦解脱者も無しと。菩薩摩訶薩は是の如き行を作し、能く六波羅蜜を具足し、一切種智に近づく。


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