山本七平氏が「空気とは何か」をどう解明しているか、私の理解できた範囲で、氏の文章を引用しながら整理していきたいと思います。
まず、以下の文章で、物事の背後に何か宗教的・心理的な力のあるものがある、つまり「臨在している」と感じて、無意識的に影響を受けてしまうこと、「対象の臨在感的な把握」から「空気」が発生する、と述べています。
一体「空気」とは何か。これを調べるための最もよい方法は、単純な「空気発生状態」を調べ、まずその基本的図式を描いてみることであろう。以下は大変に興味深い一例……
大畠清教授が、……イスラエルで、ある遺跡を発掘していたとき、古代の墓地が出てきた。人骨・髑髏(されこうべ)がざらざらと出てくる。こういう場合、必要なサンプル以外の人骨は、一応少し離れた場所に投棄して墓の形態その他を調べるわけだが、その投棄が相当の作業量となり、日本人とユダヤ人が共同で、毎日のように人骨を運ぶことになった。
それが約一週間ほどつづくと、ユダヤ人の方は何でもないが、従事していた日本人二名の方は少しおかしくなり、本当に病人同様の状態になってしまった。ところが、この人骨投棄が終ると二人ともケロリとなおってしまった。この二人に必要だったことは、どうやら「おはらい」だったらしい。実をいうと二人ともクリスチャンであったのだが――またユダヤ人の方は、終始、何の影響も受けたとは見られなかった、という随想である。
骨は元来は物質である。この物質が放射能のような形で人間に対して何らかの影響を与えるなら、それが日本人にだけ影響を与えるとは考えられない。従ってこの影響は非物質的なもので、人骨・髑髏という物質が日本人には何らかの心理的影響を与え、その影響は身体的に病状として表われるほど強かったが、一方ユダヤ人には、何らの心理的影響も与えなかった、と見るべきである。
おそらくこれが「空気の基本型」である。といえば不思議に思われる向きもあるかもしれないが、われわれが俗にいう「空気」とこの「空気の基本型」との差は、後述するように、その醸成の過程の単純さ複雑さの違いにすぎないのである。
従って、この状態をごく晋通の形で記すと、「二人は墓地発掘の『現場の空気』に耐えられず、ついに半病人になって、休まざるを得なくなった」という形になっても不思議ではない。
ここまでで一言コメントすると、つまり二人の日本人はクリスチャンでありながら、骨という物質の背後に霊魂のようなものがあると感じてしまった(臨在感)わけです。そこから、気味の悪い「空気」・雰囲気を感じてしまった=「空気」が発生し、それに耐えられなくなったのだ、というのです。
なるほど、日本人にとっては当然のように思えますが、山本氏によれば、ユダヤ人や西洋人は骨を臨在感的に把握することはなく、したがって気味の悪い空気を感じたりしないのだそうです。
ユダヤ人や西洋人が感じないことを感じるところに、日本人の「国民性」の特徴があるわけです。
物質から何らかの心理的・宗教的影響をうける、言いかえれば物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けるという状態、この状態の指摘とそれへの抵抗は、『福翁自伝』にもでてくる。
しかし彼は、否彼のみならず明治の啓蒙家たちは、「石ころは物質にすぎない。この物質を拝むことは迷信であり、野蛮である。文明開化の科学的態度とはそれを否定棄却すること、そのため啓蒙的科学的教育をすべきだ、そしてそれで十分だ」と考えても、「日本人が、なぜ、物質の背後に何かが臨在すると考えるのか、またなぜ何か臨在すると感じて身体的影響を受けるほど強くその影響を受けるのか。まずそれを解明すベきだ」とは考えなかった。
まして、彼の目から見れば、開化もせず科学的でもなかったであろう〃野蛮〃な民族――たとえばセム族――の中に、臨在感を徹底的に拒否し罪悪視する民族がなぜ存在するのか、といった点は、はじめから見逃していた。
無理もない。彼にとっては、西欧化的啓蒙がすべてであり、彼のみでなく明治のすべてに、先進国学習はあっても、「探究」の余裕はなかったのである。従ってこの態度は、啓蒙的といえるが、科学的とは言いがたい。
従ってその後の人びとは、何らかの臨在を感じても、感じたといえば「頭が古い」ことになるから感じても感じていないことにし、感じないふりをすることを科学的と考えて現在に至っている。
……多くの人のいう科学とは、実は、明治的啓蒙主義のことなのである。しかし啓蒙主義とは、一定の水準に〃民度〃を高めるという受験勉強型速成教育主義で、「かく考えるべし」の強制であっても、探究解明による超克ではない。
従って、否定されたものは逆に根強く潜在してしまう。そのため、現在もなお、潜在する無言の臨在感に最終的決定権を奪われながら、どうもできないのである。
(『「空気」の研究』p.32-5)
着かず離れずで関わってきた筆者の体験からも、日本の学問の世界の圧倒的な主流はいまだに「明治的啓蒙主義」のようです。
こうした山本氏の指摘によって、そういう明治的啓蒙主義をベースにした受験戦争に勝つべく育てられ、それに集中して勝ち、続いて明治的啓蒙主義の学問を身につけることによって学歴を得、そして今の地位に就いた日本の政官財のエリートたちのほとんどが、いまだに「探究解明による克服」が苦手なのは、歴史的にはやむをえないことだなと納得しました。
しかし過去の歴史の積み重ねとしてやむをえないから、「潜在する無言の臨在感――「なんと言っても問題は経済(のみ)だ」という感覚――に最終的決定権を奪われ」て――「経済と福祉と環境の相互促進」ではなく「経済(景気回復)の排他的最優先」で――現在の決定が行なわれるのもやむをえない、その結果、未来の歴史がどうにもならなくなるのもやむをえない、では、次世代が困ります。
ですから、臨在感に支配されず、専門別ではなく統合的な視野で日本の中長期のヴィジョンを描き実行-実現することのできる新しいタイプの「次世代のためのエリート」をなんとか早めになるべく多く養成するというのが、これからの優先課題ではないか、しかしどうやって? と考え始めているところです。