人間を連帯させる力

2010年10月20日 | 持続可能な社会

 夏休みが終わり、大学の授業が始まりかなり進んできています。

 どの大学でも学生たちの大半は、静かに真剣に聴いてくれています。

 O大では今日、授業のほかにチャペルアワーで講話をしてきました。みなさんにもシェアしたいと思います。




   聖書: ガラテヤの信徒への手紙 5・13―15
     : ヨハネの手紙一 4・12

 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えあいなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。(ガラテヤの信徒への手紙5・13―15)

 いまだかつて神を見たものはいません。私たちが互いに愛し合うならば、神は私たちの内にとどまってくださり、神の愛が私たちの内で全うされているのです。(ヨハネの手紙一 4・12)


 今日は、現代の日本人が「自由」という言葉の意味を取り違えた結果、社会的なつながり・連帯を失いつつあり、みんながとても孤独で不幸な社会になりつつあるのではないかということ、そして日本社会がもう一度つながり・連帯を取り戻すためには何が必要かということについて、聖書の言葉を手がかりに考えてみたいと思います。

 今年の一月三十一日、NHK総合テレビで「無縁社会――〝無縁死〟三万二千人の衝撃」という特集がありました。HPに掲載されている番組紹介は次のようなものでした(改行は筆者)。

 自殺率が先進国の中でワースト2位の日本。NHKが全国の自治体に調査したところ、ここ数年「身元不明の自殺と見られる死者」や「行き倒れ死」など国の統計上ではカテゴライズされない「新たな死」が急増していることがわかってきた。
 なぜ誰にも知られず、引き取り手もないまま亡くなっていく人が増えているのか。
 「新たな死」の軌跡を丹念にたどっていくと、日本が急速に「無縁社会」ともいえる絆を失ってしまった社会に変わっている実態が浮き彫りになってきた。
 「無縁社会」はかつて日本社会を紡いできた「地縁」「血縁」といった地域や家族・親類との絆を失っていったのに加え、終身雇用が壊れ、会社との絆であった「社縁」までが失われたことによって生み出されていた。

 また、取材を進めるうちに社会との接点をなくした人々向けに、死後の身辺整理や埋葬などを専門に請け負う「特殊清掃業」やNPO法人がここ二~三年で急増。無縁死に対して今や自治体が対応することも難しい中、自治体の依頼や将来の無縁死を恐れる多くの人からの生前予約などで需要が高まっていることもわかって来た。
 日本人がある意味選択し、そして構造改革の結果生み出されてしまった「無縁社会」。番組では「新たな死」が増えている事態を直視し、何よりも大切な「いのち」が軽んじられている私たちの国、そして社会のあり方を問い直す。


 この文章は、現代社会の一つの根本的な問題を実に的確に捉えていると思います。その中でも「日本人がある意味選択し、そして構造改革の結果生み出されてしまった『無縁社会』」という部分が重要だと思います。

 つまり、日本人は一九四五年にアメリカに負けて以来、アメリカの個人主義的な自由主義の圧倒的な影響の下に戦後の文化を形成してきて、「自由」はとてもいいことだ、人間の根本的な権利だと思ってきたのですが、その場合の「自由」とは、法律に違反せず他人に迷惑をかけさえしなければ、自分の好きなことをしてもいい、何をしようが自分の勝手だ、そして、自分が自由に選択したことについては自分が責任を取るべきだ、というふうな意味だったのではないでしょうか。

 それは戦前の日本では社会的なつながり・連帯が同時にしばしばしばり・強制・拘束であったことに対する批判としては、半分くらい当たっていた面もあったと思います。

 しかし、みんなが時には強制にも感じられるいろいろなつながりを断ち切って、自由に、というか自分勝手に生きる社会を選んだ結果、ある意味で当然のことながら、社会的なつながり・連帯が失われてしまい「無縁社会」になりつつあるではないでしょうか。

 若い世代のみなさんには、たとえ孤独でもやっぱり自由気ままに生きられるほうがいいと感じられるかもしれませんが、その自由気ままに生きられる経済的な基盤はいつまでも保障されたものでしょうか。
 親も年を取り、みなさんも年を取ります。いつまでも若くいられる人は一人もいません。年を取るプロセスで、病気になったり、失業したり、そうでなくても定年になり、高齢者になります。
 そうした時に、しっかりした社会的な保障がなされるような社会的な連帯がなければ、安心して生きることはとても困難になります。
 それどころか、人生の結末は「孤独死」→「腐乱死体で発見」ということになりかねません。

 そういう誤解された「自由」に対し、聖書の「自由」という言葉には、もっと本質的な人間洞察が含まれています。
 人間は確かに自由な選択ができる生物としてこの世に生まれてきた・「召し出された」のですが、その自由は「肉」つまり人間のもともとの傾向としてのエゴイズムに陥りがちなものであり、エゴイズムは「罪」つまり他者を傷つけることにつながりがちなのです。

 ところが、もう一方人間はもともと他者とのつながり・連帯なしには社会的にも心理的にも健全に生きていけない存在です。
 エゴイズムによって互いに争いあい、傷つけあっていると、当然、つながり・連帯は断ち切られてしまい、結局は共倒れになってしまいます。
 負けたものだけが滅び勝ったものは生き残るというのは、短期間だけ見ると一見そう見えますが、社会全体を長期で見れば、メンバー同士の連帯がなくなった社会はやがて滅びるというのは歴史的・社会学的な法則だといって間違いないでしょう。

 「律法」というのは古代ユダヤの倫理でも法律でもあるような社会の掟ですが、社会の掟・規範というのは、エゴイズムに陥って争いあい、その結果社会全体が崩壊するのを止めるために絶対に必要な枠組みです。
 目先自分勝手にやりたいという気持ちからすると、それはしばり・拘束のように思えますが、長い目で見れば、実はそれこそが安心・安全なつながりのある・連帯性のある社会を支えているのです。

 そして、社会的な規範の目的は、人間を拘束することではなく、人間が相互尊重をするようエゴイズムを抑制することにあります。
 聖書で、「律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされる」と言われているのは、そういう意味だと思います。
 「隣人を愛しなさい」という言葉は命令形になっていて、まさに社会的な規範です。「愛しても愛さなくてもいいが、どちらかというと愛したほうがいい」などというのではありません。
 「それでは、強制であって自由ではないではないか」という疑問が起こるかもしれません。そこが、日本人の誤解だと思うのです。

 よく考えると「自由」自体、与えられたものであって、「自由であるかないかを決める自由」というのは最初からありません。
 そして、人間の「自由」は①自分が能動的に選択をしながら②生きることができるという自由であり、選択と生きることとどちらが基本的かというと、もちろん生きることです。
 そしてそういう「生きる自由」をみんなが与えられているのですから、他の人の「生きる自由」を侵害する危険のある自分一人の自分勝手な振る舞いは、そもそもそういう人間本来の「自由」ではないのです。

 そうではなく、愛・連帯の心をもってお互いが「生きる自由」を保障しあうように自分の能動的な選択を行なう、というのが本来の「自由」なのです。
 お互いの「生きる自由」を尊重し合わなければならないという規範なしに、一人一人が自分勝手な選択をして生きるというのは、「自由」の意味の大誤解であり、とても残念なことに戦後の日本人はそういう大誤解をしてきたのだと思われます。

 実はアメリカの「自由」という考え方も、もともとは基礎にキリスト教の「愛し合わなければならない」という教えがあって、個人個人が自分勝手にすればいいということではなかったのです。
 キリスト教の影響力が弱まるにつれて、自己選択・自己責任、その結果失敗したものの面倒を社会は見ない、という意味のほうが強くなってはいるようですが。

 さて、では今、私たちはどう考え、どうしたらいいのでしょうか。そのヒントになるのが、後の方の聖書の言葉です。

 ここで、ある意味で驚くべきことに、はっきりと「いまだかつて神を見たものはいません」と書かれています。これだけだと、無神論にもなりかねない言葉です。しかし、その次が大切で、「私たちが互いに愛し合うならば、神は私たちの内にとどまってくださり、神の愛が私たちの内で全うされているのです」とあります。

 人間は社会的動物であり、愛し合い、連帯しなければ、長期にわたって安心・安全には生きていけない動物だというのは、絶対的な法則です。
 その絶対的法則を定めた何かを「神」と呼ぶのだとすれば、私たちが愛し合い、連帯する時、そこに絶対的なものが実現し存在するという意味で「神が私たちの中にいる」という言い方も成り立つわけです。

 聖書が語る「神」とは、白いひげの光り輝く超能力のお爺さんなどではなく、人間同士に連帯して生きることを絶対的法則として強制する力のことです。
 「神は愛である」という言葉がありますが、それは「愛は神である」つまり「愛は絶対である」と言いかえることもできるでしょう。

 しかし、その一見強制にも見える法則・その力にしたがって愛し合い連帯する時にこそ、人間はお互いの「生きる自由」を保障しあって持続的に安心・安全に生きることができるのです。

 ですから、今、私たちのやるべきことは、まず「自由」と「愛・連帯」ということの本来の意味をしっかりと認識しなおすこと、そして次にはそれを社会全体に実現できるよう具体的な行動をしていくということだ、と私は考えています。

 みなさんは、どう考えるでしょう。ぜひ考えてみてください。


コメント
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