賢者による政治:十七条憲法第七条

2007年02月11日 | 歴史教育
 
 第七条は、しばしば「プラトンの哲人国家の理想に似ている」と評されるところです。

 確かに「賢者による人民のための政治」という点では似ています。

 しかし、十七条憲法の「賢哲」は哲学者というよりは「聖」です。

 そして「賢哲」「聖」は第二条との関連でいえば、「菩薩」だと解釈すべきでしょう。

 太子が目指したのは、「菩薩による衆生のための政治」だったのではないでしょうか。


 七に曰く、人おのおの任あり。掌(つかさど)ること、濫(みだ)れざるべし。それ賢哲、官に任ずるときは、頌(ほ)むる声すなわち起こり、姧者(かんじゃ)、官を有(たも)つときは、禍乱(からん)すなわち繁(しげ)し。世に、生まれながら知る人少なし。よく念(おも)いて聖(せい)となる。事、大少となく、人を得てかならず治まる。時、急緩(きゅうかん)となく、賢に遇(あ)いておのずから寛(かん)なり。これによりて、国家永久にして、社稷(しゃしょく)危うからず、故に、古の聖王、官のために人を求む。人のために官を求めず。

第七条 人にはそれぞれ任務がある。職掌が乱れてはならない。賢者が官に就く時、たちまち賞賛の声が起こり、邪なものが官に就いている時は、災害や混乱がしばしばある。この世には生まれながらにして聡明な人は少ない。よく真理を心にとめることによって聖者になる。事は大小にかかわらず、適任の人を得るとかならず治まるものである。時代が激しくても穏やかでも、賢者がいれば、自然にのびやかで豊かになる。これによって、国家は永久になり、人の群れは危うくなることがない。それゆえに、古代の聖王は、官職のために人を求めたのであり、人のために官職を設けたりはしなかったのである。


 前条で、太子は官僚たちの現状を厳しく叱ったといってもいいのですが、それだけではなく、善は善として誉める・顕彰するという方針も示しています。

 第七条ではさらに、「それにふさわしい人が官職に就いた時は、賞賛の声が起こるのだ。賞賛されたかったら、それにふさわしい人間になる努力をせよ」とプライド・名誉心に訴えて、官僚たちに人格的成長への意欲を湧かせようとしているかのようです。

 人間には天から命が与えられ、そして天命・天職が与えられるものだ、というのは儒教の基本的人間観・職業観です。

 この世に生まれてきた以上、おのおのが人生で果たすべき任務があるのです。

 自分にはどういう任務・職掌が与えられているのか、それを取り違えてはならない、といわれています。

 高い地位すなわち大きな権限を委託される地位には、それにふさわしい賢者が就くべきであり、私利私欲の強い邪まな人間が官職に就くと国家は大きく乱れてしまう。社会的混乱だけではなく天災まで襲ってくるのです。

 とはいっても、生まれつきそれにふさわしい智慧を持っている人はほとんどいません。

 しかし、真理をよく学びいつも心に留めるようすれば、誰でも聖者つまり菩薩になる潜在可能性を持っている、というのは太子が大乗仏教から学んだ人間観です。

 それにふさわしい菩薩的リーダーがいれば、どんなに厳しい歴史的状況にあってもその国は平和でおのずからゆったりと豊かになりうる、国家は持続可能になり、共同体が危機を脱出できる、というのです。

 太子の時代は、隋の拡大政策の影響で朝鮮半島が脅かされ、その影響を受けて高句麗、百済、新羅の間にも紛争が絶えないという厳しい時代でした。

 しかし太子が摂政になって間もなく、2度の新羅出兵が企てられながら太子の近親者の死(偶然ではない?)によって中止されて以降、太子が亡くなるまでは日本は対外戦争を行なっていません。

 近いところでは、第二次世界大戦中、ヨーロッパ全域が戦乱に巻き込まれているという厳しい状況の中、ハンソン首相の指導下でスウェーデンがあえて徹底的な武装中立・平和を保ったことが思い出されます。

 賢明なリーダーの率いる国は、どんなに困難な状況にあってもなお平和で豊かな国を持続できる、愚かなリーダーが率いる国は、天災と人災で大混乱に陥る、というのは歴史が実証しているところでしょう。

 「それゆえに、古代の聖王は、官職のために人を求めたのであり、人のために官職を設けたりはしなかったのである」というのは、トップ・リーダーの人材抜擢の大原則として現代にもそのまま通用するものです。

 そして太子の時代と違って、代議制民主主義の国・日本では、そもそも人材を抜擢する(例えば組閣)トップ・リーダー(総理大臣)を選ぶサブ・リーダー(国会議員)を選ぶのは、一人の聖なる王ではなく、多数の民(国民)です。

 賢者を自分たちの代表として選出できるような、賢い国民が多くいれば、どんなに困難な時代であっても、必ず乗り切れる。多数の国民が賢くなければ、愚かなリーダーが選ばれ、愚かなリーダーに率いられた国は必然的に持続不可能になってしまうでしょう。

 それはあまりにもシビアな「当たり前の話」ですが、これからの日本はどうなるのでしょう、というより、私たち国民は日本をどうしたいのでしょうか。



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