和の国日本の実現

2007年10月06日 | 歴史教育

 引き続き、『逝きし世の面影』「第四章 親和と礼節」から引用・紹介させていただきます。


……江戸社会の重要特質のひとつは人びとの生活の開放性にあった。外国人たちはまず日本の庶民の家屋がまったくあけっぴろげであるのに、度肝を抜かれた。オールコックはいう。「すべての店の表は開けっ放しになっていて、なかが見え、うしろにはかならず小さな庭があり、それに、家人たちは座ったまま働いたり、遊んだり、手でどんな仕事をしているかということ朝食・昼寝・そのあとの行水・女の家事・はだかの子供たちの遊戯・男の商取り引きや手細工などがなんでも見える」。……

 家屋があけっぴろげというのは、生活が近隣に対して隠さず開放されているということだ。したがって近隣には強い親和と連帯が生じた。家屋が開放されているだけではなく、庶民の生活は通路の上や井戸・洗い場のまわりで営まれた。子どもが家の中にいるのは食事と寝るときで、道路が彼らの遊び場だった。フォールズが述べている。「日本人の生活の大部分は街頭で過され、従ってそこで一番よく観察される。昔気質の日本人が思い出して溜息をつくよき時代にあっては、今日ふさわしいと思われるよりずっと多くの家内の出来ごとが公衆の目にさらされていた。……家屋は暑い季節には屋根から床まで開け放たれており……夜は障子がぴったりと引かれるが、深刻な悲劇や腹の皮のよじれる喜劇が演じられるのが、本人たちは気づいていないけれど、影に映って見えるのである」。……

 開放されているのは家屋だけではなかった。人びとの心もまた開放されていたのである。客は見知らぬものであっても歓迎された。ルドルフ・リンダウは横浜近郊の村、金沢の宿屋に一泊したとき、入江の向い側の二階家にあかあかと灯がともり、三味線や琴で賑わっているのに気づいた。何か祝い事をやっているのだろうと想像した彼は、様子を見たく思ってその家を訪ねた。「この家の人々は私の思いがけぬ訪問に初めは大層驚いた様子であったし、不安を感じていたとさえ思えた。だが、この家で奏でられる音楽をもっと近くから聞くために入江の向うからやって来たのだと説明すると、彼らは微笑を漏らし始め、ようこそ来られたと挨拶した」。二階には四組の夫婦と二人の子ども、それに四人の芸者がいた。リンダウは、歓迎され酒食をもてなされ、一時間以上この「日本人の楽しい集い」に同席した。彼らは異邦人にびくびくする様子はなく、素朴に好奇心をあらわして、リンダウの箸使いの不器用さを楽しんだ。そして帰途はわざわざリンダウを宿屋まで送り届けたのである。これは文久二(一八六二)年の出来ごとであった。

 通商条約締結の任を帯びて一八六六(慶応二)年来日したイタリア海軍中佐ヴィットリオ・アルミニヨン(一八三〇~九七)も、「下層の人々が日本ほど満足そうにしている国はほかにはない」と感じた一人だが、彼が「日本人の暮らしでは、貧困が暗く悲惨な形であらわになることはあまりない。人々は親切で、進んで人を助けるから、飢えに苦しむのは、どんな階層にも属さず、名も知れず、世間の同情にも値しないような人間だけである」と記しているのは留意に値する。つまり彼は、江戸峙代の庶民の生活を満ち足りたものにしているのは、ある共同体に所属することによってもたらされる相互扶助であると言っているのだ。その相互扶助は慣行化され制度化されている面もあったが、より実質的には、開放された生活形態がもたらす近隣との強い親和にこそその基礎があったのではなかろうか。

 開放的で親和的な社会はまた、安全で平和な社会でもあった。われわれは江戸時代において、ふつうの町屋は夜、戸締りをしていなかったことをホームズの記述から知る。しかしこの戸締りをしないというのは、地方の小都市では昭和の戦前期まで一般的だったらしい。ましてや農村で戸締りをする家はなかった。アーサー・クロウは明治十四年、中山道での見聞をこう書いている。「ほとんどの村にはひと気がない。住民は男も女も子供も泥深い田圃に出払っているからだ。住民が鍵もかけず、何らの防犯策も講じずに、一日中家を空けて心配しないのは、彼らの正直さを如実に物語っている」。……

 平和で争いのない人びとはまた、観察者によれば礼譲と優雅にみちた気品ある民であった。ボーヴォワルは、立ち寄った商店の女がお茶と煙草をすすめる仕草に感心し、「庶民の一婦人のこの優雅さ」からすれば、「われわれを野蛮入扱いする権利」をたしかに日本人に認めないわけにはいかないと感じた。街ゆく人びとは「誰彼となく互いに挨拶を交わし、深々と身をかがめながら口もとにほほえみを絶やさない」。田園をゆけば、茶屋の娘も田圃の中の農夫もすれちがう旅人も、みな心から挨拶の言葉をかけてくれる。「その住民すべての丁重さと愛想のよさにどんなに驚かされたか。……地球上最も礼儀正しい民族であることは確かだ」。……

 しかし画家ラファージ(一八三五~一九一〇)は、日本人の礼節に「自由の感情」あるいは「民主的と呼んでよさそうなもの」を感じた。これはチェンバレンの感じたことに非常に近い。だが、〝封建制〟あるいは身分制度の一表現でもあるはずの丁重な礼儀作法が、ある種の自由や自立に通じるという逆説には、ここでは深入りを避けよう。それよりも問題として重要なのは、観察者に深いおどろきを与えた日本人の礼儀正しさが、彼らがこぞって認めた当時の人びとの特性、無邪気で明朗、人がよく親切という特性のまさに要めに位置する徳目だということだ。その点を明瞭に認識したのはエドウィン・アーノルドである。

 「都会や駅や村や田舎道で、あなたがたの国のふつうの人びとと接してみて、私がどんなに微妙なよろこびを感じたか、とてもうまく言い表わせません。どんなところでも、私は、以前知っていたのよりずっと洗練された立ち振舞いを教えられずにはいなかったのです。また、ほんとうの善意からほとばしり、あらゆる道徳訓を超えているあの心のデリカシーに、教えを受けずにはいられませんでした」。東京クラブでこう語ったとき、アーノルドは日本人の礼儀正しさの本質をすでに見抜いていたのだった。

 彼によるとそれは、この世を住みやすいものにするための社会的合意だったのである。「日本には、礼節によって生活をたのしいものにするという、普遍的な社会契約が存在する。誰もが多かれ少なかれ育ちがよいし、『やかましい』人、すなわち騒々しく無作法だったり、しきりに何か要求するような人物は、男でも女でもきらわれる。すぐかっとなる人、いつもせかせかしている人、ドアをばんと叩きつけたり、罵言を吐いたり、ふんぞり返って歩く人は、最も下層の車夫でさえ、母親の背中でからだをぐらぐらさせていた赤ん坊の頃から古風な礼儀を教わり身につけているこの国では、居場所を見つけることができないのである」。「この国以外世界のどこに、気持よく過すためのこんな共同謀議、人生のつらいことどもを環境の許すかぎり、受け入れやすく品のよいものたらしめようとするこんなにも広汎な合意、洗練された振舞いを万人に定着させ受け入れさせるこんなにもみごとな訓令、言葉と行いの粗野な衝動のかくのごとき普遍的な抑制、毎日の生活のこんな絵のような美しさ、生活を飾るものとしての自然へのかくも生き生きとした愛、美しい工芸品へのこのような心からのよろこび、楽しいことを楽しむ上でのかくのごとき率直さ、子どもへのこんなやさしさ、両親と老人に対するこのような尊重、洗練された趣味と習慣のかくのごとき普及、異邦人に対するかくも丁寧な態度、自分も楽しみひとも楽しませようとする上でのこのような熱心――この国以外のどこにこのようなものが存在するというのか」。「生きていることをあらゆる者にとってできるかぎり快いものたらしめようとする社会的合意、社会全体にゆきわたる暗黙の合意は、心に悲嘆を抱いているのをけっして見せまいとする習慣、とりわけ自分の悲しみによって人を悲しませることをすまいとする習慣をも含意している」。

 いまこそわれわれは彼が次のように述べた訳が理解できるだろう。「国民についていうなら、『この国はわが魂のよろこびだ』という高潔なフランシスコ・シャヴィエルの感触と私は一致するし、今後も常にそうであるだろう。都会や町や村のあらゆる階層の日本人のあいだですごした時ほど、私の日々が幸福かつ静澄で、生き生きとしていたことはない」。アーノルドは一八八九年(明治二十二)年十一月に来日し、麻布に家を借りて娘と住み、九一年一月に日本を離れた。彼は九七年に日本人女性と結婚したそうだが、日本讃美者にありがちな幻滅が晩年の彼を襲ったかどうか私は知らない。しかしそれはどうだって構わないことだ。私にとって重要なのは在りし日のこの国の文明が、人間の生存をできうるかぎり気持のよいものにしようとする合意と、それにもとづく工夫によって成り立っていたという事実だ。ひと言でいって、それは情愛の深い社会であった。真率な感情を無邪気に、しかも礼節とデリカシーを保ちながら伝えあうことのできる社会だった。当時の人びとに幸福と満足の表情が表われていたのは、故なきことではなかったのである。


 ぜひご紹介したいので、長い長い引用になりました。

 この本に教えられて私も著者と共に、「私にとって重要なのは在りし日のこの国の文明が、人間の生存をできうるかぎり気持のよいものにしようとする合意と、それにもとづく工夫によって成り立っていたという事実だ。ひと言でいって、それは情愛の深い社会であった。真率な感情を無邪気に、しかも礼節とデリカシーを保ちながら伝えあうことのできる社会だった。当時の人びとに幸福と満足の表情が表われていたのは、故なきことではなかったのである。」と言いたくなりました。

 江戸末期、日本は聖徳太子以来の国家理想「和の国日本」を相当なレベルで実現していたように思えます。



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3 コメント

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Unknown (三谷)
2007-10-07 02:07:54
どうもこんばんは。
紹介されている江戸時代の我が国、
とても感動です!
この本を紹介されていてすこしびっくりしました。
大学時代、ほとんど唯一通読することができて、そして感動した歴史の本がこれだったからです。
ほんとうに名著というにふさわしいと感じます。
思えば私たちは自分たちの国の過去の暗い側面ばかり見てきたように思われます。
そしてこの本がよくある単なる過去の礼賛ではなくて、膨大な文献的証拠を積み重ねているのが信用できると感じます。
それにしても当時訪れた外国人の目に、ほとんど一様に「美しく」「温和」で「幸福そう」で「豊か」だと映ったかつての日本・日本人の姿とは、主流の歴史学が真面目に精緻に描写してきた「暗黒史観」と、いかに異なることでしょうか!
ここで描き出されたかつての日本の姿のほうが事実に近かったとすれば、わずか数世代前の歴史像がいかに見る人の思想や問題意識によって偏ったものになるか(歪められるか)は驚くばかりです。
それにしても私たちのご先祖様の生きていた「文明」とは、総体としてまさに「美しい国、日本」だったのですね。

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ほんとに、、 (しゅとう)
2007-10-07 22:08:33
まさに三谷君の言うとおりですね。
僕たちは歴史の授業で、こんな江戸時代の事実は教わらなかった。
江戸時代と言えば、15代の将軍が続いてとか
生類憐みの令とかそんなのは思い出しますが。
外国の人々からこれだけ絶賛させられたのは…たぶん本当だったのでしょう。

これは読む価値がある本だと思いますが、
図書館に行って、その分厚さに借りるのをあきらめました。とりあえず、山本周五郎の「士道記」を読んでみます。
ホロン構造で進化するはずなのに、日本人のいいところは抜け落ちてしまったんだろうか?
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明るい面を意識的に見る (おかの)
2007-10-10 20:54:56
>みたにくん

 そうなんですね。学生時代に読んでいたんですね。

 私たちは、反省というより果てしない後悔・懺悔として、日本近代の暗黒面ばかり見るように習慣づけられてきたようです。

 もちろん、人間のすることには必ず明るい面と暗い面があります。

 その場合、ひたすら暗い面を見るだけでは、否定すべきところは否定した上でアイデンティティを再建するという意味での「反省」にはならず、アイデンティティが再確立できないで精神不安定、うつ状態を続ける「後悔」にしかなりません。

 今の私たちには、日本の過去の明るい・美しい面を意識的に再発見することが不可欠なのだと思います。

>しゅとうくん

 本当にこんなことは高校時代教わりませんでしたね。まったく残念!

 ぜひ、自分で学びなおしましょう。

 「ホロン」の件、進化することもあれば、崩落することもあるようです。

 日本は崩落寸前、あるいはすでに崩落が相当進んでいると思われます。

 しかし、どこかで止めることはできる!と信じています。 
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