「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評 第129回 水に映れば――神野紗希句集『すみれそよぐ』を読む 若林 哲哉 

2020年12月11日 | 日記

 『すみれそよぐ』は、『星の地図』と『光まみれの蜂』に次ぐ、神野紗希の第3句集である。前回の時評で俳句甲子園のことを書いたが(https://blog.goo.ne.jp/sikyakuhaiku/e/a92eaa49ddcff5d2851d2f4249d99639?fm=entry_awc)、彼女もまた、俳句甲子園を通じて俳句の魅力に取り憑かれ、現在も尚俳人として活躍しているうちの一人であることは、もはや言うまでもない。
 あとがきにもあるように、『すみれそよぐ』は、女性として、結婚・妊娠・出産・育児といったライフイベントを経る中で作られた句が多く収録されている。筆者である僕は、生物学的にも、戸籍上も、また自認の面でも男性である。それゆえ、魅力を感じながらも、簡単な共感を寄せて片付けてはいけないのではないかと思いながら句集を読み進めた。

  抱く便器冷たし短夜の悪阻

 僕にも、便器に向かって嘔吐した経験はある。その時に身体を預ける便器が冷たいということも、ありありと分かる。しかし、「悪阻」は経験したことがないし、経験しようがない。「冷たし」という季語が伝える「便器」の質感と身体感覚が、「悪阻」を体感したことない読者にもそのしんどさを伝えてくれる、というようなことは、僕には到底書き得ない。そこにはおそらく、漸近こそ出来ても、一致はしない、微妙な差異がつきまとうのだろうと思う。

  産み終えて涼しい切株の気持ち

 それまで自分の身体の一部であった子が自分を離れた時の喪失感、一方で、出産という大仕事を終えた達成感や、これから成長する子を見守る期待の眼差しも奥に感じられる一句。「切株」が纏う喪失感のイメージは、例えば〈切株は じいんじいんと ひびくなり/富沢赤黄男〉(『蛇の笛』)など、先人の俳句の蓄積の先にあろうが、季語と組み合わせて「涼しい切株」という言葉を組み立てたことで更新されている。しかしながら、この句も、出産を経験しようがない僕からすると、どこまで共感してよいものか、慎重にならざるを得ない。

 他方で、生物の質感を写し取った句、また、一句が現代社会の在りようへと開かれている俳句には、神野紗希の力量を特に感じた。
 
  ぶどうより柔らか雨蛙のおなか

 「雨蛙のおなか」の柔らかさを述べる時に、「ぶどう」というジューシーな果物を引き合いに出したことが面白い。水のイメージを通底させながら、片や植物、片や動物という、生物どうしの手触りの違いを捉えており、また、「おなか」という口語的でキュートな言い回しが、この発見を無邪気に楽しんでいる雰囲気を生む。

  コンビニやバナナ一本ずつ売られ

 バナナが一本ずつ売られていることに驚きを覚えるのは、バナナは束で売っているものだという前提があるからである。一本ずつ売られているコンビニのバナナは、恐らく、一人暮らしの人や、一人で食事をする人向けのものであり、現代に生きる人々の孤独が反映されている。『光まみれの蜂』に収録されている〈コンビニのおでんが好きで星きれい〉は神野紗希の代表句の一つだが、同じコンビニの句でも、「バナナ」の句は陰りが印象的である。「バナナ」という夏の、ともすれば陽気なイメージを醸し出す季語を裏切るような陰影だ。

 最後に、
  水に映れば世界はきれい蛙飛ぶ

 〈水に映れば世界はきれい〉という措辞は、水に映っていない世界そのものはきれいではないという認識があった上で導かれるものだろう。この一句を通奏低音のようにして『すみれそよぐ』を読むと、神野紗希によって描かれる「私」や子、生き物たちがいっそう健気に感じられる。「私」たちが生きている世界は決してきれいなものではないのかも知れないけれど、俳句という「水」に映れば、きれいで愛すべき場所になる。そういうことなのかも知れない。

〇書誌情報
神野紗希『すみれそよぐ』(2020年11月9日、朔出版)

https://twitter.com/kono_saki/status/1326688264888045568?s=20
(神野紗希さんご本人のTwitterより、購入方法のまとめ)