「春のお辞儀がしやりりと点滅」と題された俳句にまつわるトーク・イベントに今年の5月に行ってきたのですが (もう半年も経つんですね…)、出演の長嶋有さんと野口る理さんと榮猿丸さんのお三かたの、(半年前当時)出たばかりの句集『春のお辞儀』『しやりり』『点滅』(三冊ともふらんす堂刊)、三つタイトルを合体させたイベント名からしてすでにこのうえなく楽しいのですが、トークのおもな内容は、三つの句集についてそれぞれ自分以外の二人の句集の中から、六選(うち特選一句)と、逆選(「これはちょっと…」と思う句)一句をピックアップして、それについて話すというもので、私のような俳句素人が聞いても大変わかりやすく「なるほどこの句はこう読むのか、こうも読めるのか」という発見や驚きがあり、また「逆選」では、逆選といいつつもそれぞれ愛情たっぷりに選ばれ評されていて、とても楽しくかつタメになったのでした。
そのトーク・イベントのあとのサイン会で、私はお三かたの句集にサインをしてもらったのだけど、サインをしてもらっているとき長嶋さんに、いままで私は句集といえばちくま文庫の放哉と山頭火の二冊くらいしか持っていなかったんです、という話をしたら、ちくま文庫のその二冊の句集がずっと「アマゾン」の句集のベストセラーランキングの上位に居座っているんだよね、というお話をされて、ああ、やはりそうなのかと思ったのですが、ともに漂泊の破滅型の生活を送りながら自由律俳句をつくった、異端者である二人が、現在ある意味もっともポピュラーの俳人であるというのは、いったいどういうことなのでしょうか。俳句を専門にやられているかたたちはかれらのことを(またかれらの人気を)、どう思っているのでしょうか。
それはさておき、榮さんは俳優さんのようにかっこよく、野口さんは女優さんのように麗しく、長嶋さんは三枚目俳優のようにおもしろく、かれらが並ぶイベントはまるで映画の完成記念イベントと見まごうような華やかさだったですが、俳句と俳優はどちらも「俳」の字で、なにやら縁がありそう。
「男はつらいよ」シリーズの寅さん役でおなじみの俳優の故・渥美清さんは「風天(フーテン)」の俳号で俳句をつくられていて、趣味で句会によく顔を出されていたとのこと。渥美さんと俳句とのかかわりについて詳しく書かれた、ジャーナリストの森英介さん著『風天 渥美清のうた』(文春文庫) という本には、渥美さんと俳句のうえで親交のあったひとたちから集めた「風天」としての渥美さんにまつわるエピソードの数々と、森さんが奔走して発見・蒐集された全「風天句」が掲載されており、渥美さん/寅さんファンにも俳句をされているかたにもぜひおすすめしたい一冊ですが、渥美さんは放哉や山頭火が好きで、生前、放哉や山頭火を演じてみたかったらしく、一度、山頭火のテレビ映画化にあたりその主演の話があったらしいのですが、ざんねんながら流れてしまったらしい。でも渥美さんによる「風天句」を読んでいると、渥美さんは俳句の中で放哉や山頭火を演じたのでは、という気がしてきます。たとえば、
村の子がくれた林檎ひとつ旅いそぐ 風天
案山子ふるえて風吹きぬける
ゆうべの台風どこに居たちょうちょ
といった句は自由律のリズムが山頭火を髣髴とさせつつ、描かれている情景から、寅さんのことも思い浮かべずにはいられないです。
行く年しかたないねていよう
ただひとり風の音聞く大晦日
などは「男はつらいよ」シリーズにおいて何度も、妹のさくらに「お兄ちゃん、今年こそはお正月、家でゆっくりしていきなさいよ」と言われながらも、「そうしてえのはヤマヤマだけどよ、これからが俺たちのカキイレ時でね」とかなんとかいって結局一度もそれがかなうことのなかった年末の寅さんの姿を思って、しんみりとしてしまいます。
風天句のなかで私がとりわけ好きなもののひとつは、
芋虫のポトリと落ちて庭しずか
ですが(これほどまでに静寂の庭を、それまで私は見たことがありませんでした)、ほかにも、
天道虫指先くすぐりあっちへ飛んだ
冬の蚊もふと愛おしく長く病み
赤とんぼじっとしたまま明日どうする
などなど、ちいさきものへこころを寄せた句が非常に多く、これらちいさきものたちもまたほんのわずかな時間、この世に生まれてまた向こうへとさまよい去っていく漂泊の旅人で、かれにとっては旅の仲間だったのかもしれません。
ひぐらしは坊さんの生れかわりか
という句もありますが、このひぐらしはあるいは放哉の、山頭火の、生れかわりかも。
ちょうど、「とらや」のひとたちが寅さんのことを「しょうがないやつだなあ」といいながらも、どこかでとてもうらやましく思っているように、「定型」に守られつつもそれにしばられて日々を営んでいる私たちは、一方で放哉や山頭火や寅さんの自由と漂泊にどこかであこがれているのかもしれません。
ところで「男はつらいよ」シリーズと並んで私がもっとも好きな邦画のひとつが「仁義なき戦い」シリーズで、戦後まもない混沌の広島を舞台に、やくざたちの血で血を洗う抗争を描いたシリーズ中、血の気が多く怒号まきちらす人物ばかりが連なるなかで、それらの人物とは一線を画し、声を荒げることなく始終クールに、頭脳でたたかっていくインテリやくざを演じて、いぶし銀の輝きでわれわれを魅了する俳優・成田三樹夫さん。かれも趣味で俳句をされていたとのことで、没後に遺稿句集『鯨の目』(無明舎出版)が出ています。
目が醒めて居どころがない 成田三樹夫
色々の人々のうちにきえてゆくわたくし
など、かれもまた自由律の俳句を多くのこしていますが、悪役やアウトローの役に定評のあった成田さんには自由律が似合っている、なかなかキマッているように見えます。読んでいると思わず「仁義なき戦い」のテーマソングが頭の中で流れ出してきちゃったりもするのですが、「男はつらいよ」のほうの主題歌は渥美さんの声で「どうせおいらはやくざなあにき」と歌い出されますけども、「目が醒めて居どころがない」のはやくざもののサダメでしょうか。二番目の句もいろいろな読みかたができると思いますが、さまざまな人物を演じるうちに、いつしかもともとの「わたくし」を見失いかねない、俳優をなりわいとする人たちの哀しいサダメのようなものを私はそこに読んでしまいます。
咳こんでいいたいことのあふれけり
放哉は「咳をしても一人」ですが、この三樹夫句の咳こんだ人物もまた一人ぼっちで、いいたいことがあふれても、それを伝えるべき相手はかれのまわりのどこにも見あたらず、コトバは言葉にならないまま、虚空へと消えていくのです。
そのトーク・イベントのあとのサイン会で、私はお三かたの句集にサインをしてもらったのだけど、サインをしてもらっているとき長嶋さんに、いままで私は句集といえばちくま文庫の放哉と山頭火の二冊くらいしか持っていなかったんです、という話をしたら、ちくま文庫のその二冊の句集がずっと「アマゾン」の句集のベストセラーランキングの上位に居座っているんだよね、というお話をされて、ああ、やはりそうなのかと思ったのですが、ともに漂泊の破滅型の生活を送りながら自由律俳句をつくった、異端者である二人が、現在ある意味もっともポピュラーの俳人であるというのは、いったいどういうことなのでしょうか。俳句を専門にやられているかたたちはかれらのことを(またかれらの人気を)、どう思っているのでしょうか。
それはさておき、榮さんは俳優さんのようにかっこよく、野口さんは女優さんのように麗しく、長嶋さんは三枚目俳優のようにおもしろく、かれらが並ぶイベントはまるで映画の完成記念イベントと見まごうような華やかさだったですが、俳句と俳優はどちらも「俳」の字で、なにやら縁がありそう。
「男はつらいよ」シリーズの寅さん役でおなじみの俳優の故・渥美清さんは「風天(フーテン)」の俳号で俳句をつくられていて、趣味で句会によく顔を出されていたとのこと。渥美さんと俳句とのかかわりについて詳しく書かれた、ジャーナリストの森英介さん著『風天 渥美清のうた』(文春文庫) という本には、渥美さんと俳句のうえで親交のあったひとたちから集めた「風天」としての渥美さんにまつわるエピソードの数々と、森さんが奔走して発見・蒐集された全「風天句」が掲載されており、渥美さん/寅さんファンにも俳句をされているかたにもぜひおすすめしたい一冊ですが、渥美さんは放哉や山頭火が好きで、生前、放哉や山頭火を演じてみたかったらしく、一度、山頭火のテレビ映画化にあたりその主演の話があったらしいのですが、ざんねんながら流れてしまったらしい。でも渥美さんによる「風天句」を読んでいると、渥美さんは俳句の中で放哉や山頭火を演じたのでは、という気がしてきます。たとえば、
村の子がくれた林檎ひとつ旅いそぐ 風天
案山子ふるえて風吹きぬける
ゆうべの台風どこに居たちょうちょ
といった句は自由律のリズムが山頭火を髣髴とさせつつ、描かれている情景から、寅さんのことも思い浮かべずにはいられないです。
行く年しかたないねていよう
ただひとり風の音聞く大晦日
などは「男はつらいよ」シリーズにおいて何度も、妹のさくらに「お兄ちゃん、今年こそはお正月、家でゆっくりしていきなさいよ」と言われながらも、「そうしてえのはヤマヤマだけどよ、これからが俺たちのカキイレ時でね」とかなんとかいって結局一度もそれがかなうことのなかった年末の寅さんの姿を思って、しんみりとしてしまいます。
風天句のなかで私がとりわけ好きなもののひとつは、
芋虫のポトリと落ちて庭しずか
ですが(これほどまでに静寂の庭を、それまで私は見たことがありませんでした)、ほかにも、
天道虫指先くすぐりあっちへ飛んだ
冬の蚊もふと愛おしく長く病み
赤とんぼじっとしたまま明日どうする
などなど、ちいさきものへこころを寄せた句が非常に多く、これらちいさきものたちもまたほんのわずかな時間、この世に生まれてまた向こうへとさまよい去っていく漂泊の旅人で、かれにとっては旅の仲間だったのかもしれません。
ひぐらしは坊さんの生れかわりか
という句もありますが、このひぐらしはあるいは放哉の、山頭火の、生れかわりかも。
ちょうど、「とらや」のひとたちが寅さんのことを「しょうがないやつだなあ」といいながらも、どこかでとてもうらやましく思っているように、「定型」に守られつつもそれにしばられて日々を営んでいる私たちは、一方で放哉や山頭火や寅さんの自由と漂泊にどこかであこがれているのかもしれません。
ところで「男はつらいよ」シリーズと並んで私がもっとも好きな邦画のひとつが「仁義なき戦い」シリーズで、戦後まもない混沌の広島を舞台に、やくざたちの血で血を洗う抗争を描いたシリーズ中、血の気が多く怒号まきちらす人物ばかりが連なるなかで、それらの人物とは一線を画し、声を荒げることなく始終クールに、頭脳でたたかっていくインテリやくざを演じて、いぶし銀の輝きでわれわれを魅了する俳優・成田三樹夫さん。かれも趣味で俳句をされていたとのことで、没後に遺稿句集『鯨の目』(無明舎出版)が出ています。
目が醒めて居どころがない 成田三樹夫
色々の人々のうちにきえてゆくわたくし
など、かれもまた自由律の俳句を多くのこしていますが、悪役やアウトローの役に定評のあった成田さんには自由律が似合っている、なかなかキマッているように見えます。読んでいると思わず「仁義なき戦い」のテーマソングが頭の中で流れ出してきちゃったりもするのですが、「男はつらいよ」のほうの主題歌は渥美さんの声で「どうせおいらはやくざなあにき」と歌い出されますけども、「目が醒めて居どころがない」のはやくざもののサダメでしょうか。二番目の句もいろいろな読みかたができると思いますが、さまざまな人物を演じるうちに、いつしかもともとの「わたくし」を見失いかねない、俳優をなりわいとする人たちの哀しいサダメのようなものを私はそこに読んでしまいます。
咳こんでいいたいことのあふれけり
放哉は「咳をしても一人」ですが、この三樹夫句の咳こんだ人物もまた一人ぼっちで、いいたいことがあふれても、それを伝えるべき相手はかれのまわりのどこにも見あたらず、コトバは言葉にならないまま、虚空へと消えていくのです。