鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.5月「吉原宿・三四軒屋浜」取材旅行 その4

2008-05-14 06:01:33 | Weblog
 「富士市クリーンセンターききょう」は、公共の保養施設かと見まごうばかりの立派な施設。その北側の通りが、「水神田子の浦港線」で、真っ直ぐに田子の浦港方面に延びています。その道の両側には、大きな工場や社宅などが立ち並んでいます。とくに目立ったのは、「宇部三菱セメント(富士工場)」でした。その通りを東に向かって(田子の浦港方面)進むと、右手に大きな住宅団地(アパート群)が見えてきました。県営住宅で「自由ヶ丘団地」というものでした。右折してその団地の中に入っていくと、「富士市立わかくさ保育園」というのがあり、その保育園の海岸側を左折して巨大防波堤沿いに東進しました。松林が残っているところがありますが、防波堤が建設される前は、浜がずっと内陸部まで伸びていたのでしょう。その名残りと思われます。

 その防波堤沿いにやや古そうな集落が現れ、その右手(防波堤側)の草っ原の中に「遷座之跡」という小さな石碑を見つけました。もとはここに神社があったのが、一つに統合されて移転したらしい。よく見ると、その神社の跡地である名残りがたしかにある。

 道を三輪車を押して歩いていたおばあさんに声を掛けました。おばあさんの話によると、たしかに以前はここに神社(氏神さま)があって、お祭りも賑やかであったとのこと。防波堤が出来たり、北側の田んぼに工場や社宅、民家などが建てられて、昔とはずいぶん変わってしまったという。昔は、防波堤がなかったために、家から海が見えたのだとも。おそらく松林越しに海が見えたのでしょう。このあたりは海抜9m前後の高台になっていて、その上に人家があったから、海が見えたのです。ディアナ号が下田方面からやってきて、大瀬崎沖から三軒屋浜の沖合い投錨した時、その光景は人家から見えていたことになる。人家の窓から、また庭から、松林から、ディアナ号(彼らにとって物珍しく、かつ異様な「異国船」であり「黒船」でした)の姿は村人たちに目撃されていたことになります。

 このおばあさんから興味深い話を伺いました。「三四軒屋」の地名の由来です。私は「三四軒屋」という珍しい地名を知った時、3軒か4軒しか人家がないごく小さな村であったから、そういう地名が付いたのだろうと思いました。東京の「三軒茶屋(さんげんちゃや)」からの連想でした。

 しかしおばあさんの言われるには、かつて大きな津波があって、集落の人家のうち3軒、そして4軒しか残らなかった(つまり後は全部津波で破壊され流された)ために、「三軒屋」「四軒屋」という地名が生まれ、それが合わされて「三四軒屋」になったということのようです。

 海抜が9mほどあるものの、さてはさては津波の被害は甚大だったのです。

 「川」のことをお聞きすると、県営住宅のところにかつては川があった(今も姿を変えているけどもその川はある)ということでした。

 ということで、もと来た道をふたたび戻ることにしました。

 すると、先ほどの県営住宅(自由ヶ丘団地)の南側を過ぎた右手に川があり、大きな水門がありました。その水門には「元富士排水ひ管」とあって、1984年12月に竣工されたもの。県営住宅の西側を流れている川が、この水門を潜り、巨大防波堤の下をトンネルで潜って海に流れ込んでいるのです。防波堤がない前は、直接、この川は浜を通過し海(駿河湾)に流れ込んでいたことになる。この川は護岸工事がなされてかなり整備されており用水路のようになっていますが、昔はもちろんこうではなかったでしょう。

 どうやら、この川が浜辺に流れ込む辺りが、ロシア人たちが上陸し、そして川の岸辺がロシア人たちが露営していた場所ではないかと大体の見当をつけました。要するに県営住宅が建っている地区および(あるいは)その西側付近一帯ということになる。

 その水門のところから巨大防波堤の上に上がる階段があったので登ってみました。階段の数は63もありました。12mほどの高さということになる。海抜でいうと17mほどはあるのかも知れない。大変な高さです。防波堤の上に立ち、そこから見える浜辺や海、そして対岸の方向を写真に撮りました(10:43)。

 しばらくして防波堤から水門へ下り、ふたたび道を東方向へ。

 先ほどの「遷座之跡」の石碑のところに戻りました。同じく右手にある自主防災倉庫には、「三四軒屋区自主防災倉庫」と記されていました。

 左に折れる道の左手には、「勇進丸」という「しらす」を直売しているお店がありました。

 車を置いてある場所へ向かう途中、左手の空き地でお仕事をしているおじさんがいたので、声を掛けてお話を伺ったところ、またまた興味深い話を聞くことができました。やはり、土地のことは土地の人に聞いてみるものです。


 続く


○参考文献
・『ヘダ号の建造』(戸田村教育委員会)

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2 コメント

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勇進丸 (エル)
2009-08-02 19:51:41
勇進丸で検索したらヒットしました。

あのお店は、私の母の実家です。

あの地域は本当にすごい被害を受けたと聞きました。

あんなに高い堤防が立つ程ひどかったわけですから、よっぽどのことだと思います。

お店といっても普通の家ですが、被害にあったとき、二階まで海水が来たと聞きました。

あの辺は平屋が多いので、かなり大変だったと思います。

あんなこじんまりやっているお店の名前を書いてくださってありがとうございました。

勇進丸の釜揚げしらすは最高においしいです!

では!
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エルさんへ. (鮎川俊介)
2009-08-03 19:53:20
 コメントありがとうございます。
 「勇進丸」は、防波堤に沿った三四軒屋浜の昔ながらの細い通りを折れて西側にあったことを覚えています。
 取材旅行でクーラーボックスを車に入れておかなかったので、しらすを購入することはしませんでした。
 機会があったら、今度は釜揚げしらすを是非買いたいと思いました。

 こういうつながりは、やはりインターネットならではと思いました。

 今後とも、よろしくお願いします。

                   鮎川
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