鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.5月「吉原宿・三四軒屋浜」取材旅行 その5

2008-05-18 05:38:03 | Weblog
そのおじさんの話によると、かつては巨大防波堤はなく、松林を通して海を見渡すことができました。あの三輪車のおばあさんの話と同じです。松の木の枝の上に板が数枚渡してあって「やぐら」のようになっており、夏休みともなると、その上で数人が集まって、とうもろこしやすいかを食べながら夏休みの宿題をやったものだという。昭和30年代初めのころのことになります。もちろん「やぐら」の上からは、松林を通して、漁船が浮かぶ海(駿河湾)が見えました。対岸は伊豆半島の大瀬崎を突端とする陸地。右手は三保の松原方面が見え、左手には沼津港へと奥まっていくまるで入り江のような海が見える。松林は、その入り江のような海の左側に延々と伸びています。

 今、大工場や新しい人家、社宅、アパートなどが密集している北側は、かつては田んぼが広がっていて、その田んぼのはるか向こうに富士の町の灯(あか)りが見えたそうです。

 海岸にはよく絵描きがやってきてキャンバスを広げていました。そこから見える富士山を描くためですが、現在は、大工場の建物が視界をさえぎっているため、絵描きが訪れるようなことはほとんどないそうです。

 そのおじさんに、川のことを聞きました。

 県営住宅の横を流れる川は、「放水路」と読んでいたという。正確には「第二放水路」。それはむかしからの川で、あのあたり一帯には「どんぶり」と地元の人が読んでいた大きな沼地があったらしい。「どんぶり」にはたくさんの魚が生息していて、こどもたちはよくそこで魚釣りをしたものだとのこと。ざりがになどもたくさんいて、食用にしたこともあるらしい。がまがえるが大きな声で鳴いていたとも。位置としては、富士川と第二放水路の間になる。

 現在は、その「どんぶり」は埋めたてられてしまい工場が建ち並んでいます。

 ここからは私の推測になりますが、富士川の河口部はかつては現在よりもさらに広く、そして東側に寄っていたのではないか。三軒屋の人家の近くまで、河口部が広がっていたのではないか。今は巨大防波堤と堤防により海岸や川と隔てられた平地は、工場や新しい人家などが建ち並ぶところとなっていますが、かつては川や川原ではなかったか。その川の名残りが「どんぶり」ではなかったか。

 となると、三軒屋の集落(富士郡宮島村字〔あざ〕三軒屋)は、南側に松林のある海岸が広がり、西側には富士川の河口部が広がる半農半漁の集落であり、その海岸の沖合い300メートル付近で沈没したディアナ号の乗組員たちは、海岸に上陸した後、富士川の河口部の広い川原で、濡れた衣服や書類、剣付鉄砲、サーベルなどを干しながら露営していたことになります。

 これはあくまでも、地形と地元の方から伺った話から導いた推測に過ぎませんが、こう考えると辻褄(つじつま)が合ってくるような気がしてきます。幕末の頃の古い絵地図などがあれば、その推測がはたして合っているかどうかはすぐにわかることですが……。

 ディアナ号の錨(いかり)のことを伺うと、その場所を詳しく教えてくれました。ディアナ号の乗組員救助の際には、そのおじさんの先祖も立ち働いたとのこと。村人総出で救援活動を行なったのであって、けして一部の人がやったものではないとも言われました。

 つい話し込んでしまったため、お礼を言って別れた時はすでに11:30。

 左手にかつてはこのあたりの大地主であったというI家の歴史を漂わせる古い屋敷、それからポリプラスチックス(株)研究開発本部、右手にポリプラスチックス(株)富士工場(地元の人は「ポリプラ」と呼んでいる)を見て、「水神田子の浦港線」(県道341)に出て、そこを左折。しばらく行くと、「ディアナ号錨← 三四軒屋緑道←」の案内標示がありました。あの県営住宅(自由ヶ丘団地)の手前になります(東側に隣接している公園です)。

 そこを左折して、車を停めました。

 その海岸(防波堤)方面へ向かって細く延びる公園の中ほどに、たしかに巨大な錨が置かれ、またその傍らにはプチャーチン提督の像が立っていました。


 続く


○参考文献
・『ヘダ号の建造』(戸田村教育委員会)
・『静岡県の歴史散歩』静岡県日本史教育研究会編(山川出版社)


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