鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

韮山代官江川太郎左衛門英龍の過労死 その5

2008-05-05 06:21:47 | Weblog

 宮島村を出立し、東海道を東進するロシア人たちには、沿道の宿場(原宿など)において卵や熱く蒸かした(あるいは焼いた)サツマイモが用意されました。原宿では昼食・休憩場所として本陣(渡邉家)やお寺(昌源寺)が用意されました。病人に駕籠が用意されたことは、前に触れた通り。これらの懇切丁寧で行き届いた対応も、代官江川英龍の指図のもとに行なわれたのではないか。

 2日に分けての通行とはいえ、400人以上のロシア兵、そしてその警護のための、やはり400人以上の日本兵(沼津藩兵と小田原藩兵)、合わせて800名以上の行列の通行に、手落ちなく対応する(昼食の準備・休憩所の手配)のはどれほど大変なことであったか。

 沼津城下に入った一行が、「市場の渡し」を渡ったことについても、前に触れたところですが、第一陣の400名余(ロシア兵と沼津藩兵)を、渡し舟で対岸に渡すこと一つをとっても、それは大変なことであったに違いない。やはり、江川代官の指揮系統のもとにおいて行なわれたと思われる。

 プチャーチン一行(第一陣)は、その日(12月6日)は江ノ浦に泊まります。一行(全員かどうかはわからない)の入った寺(照江寺)においては、すでに本尊が外に運び出されており、また夕食や寝具の手配も出来ていたはず。

 この夕食やその翌日の朝食の準備などは、おそらく江ノ浦の村人たち総出で行なわれたのではないか。何しろ400人以上の大集団であったのだから。さらにその日の夕方には第二陣(これも400人以上)が到着することになっており、小さな漁村は、文字通りてんてこ舞いであったに違いない。

 江ノ浦というと、プチャーチンの搭乗するディアナ号が宮島村で座礁し、それを牽引するために動員された漁村の一つ。さらに荷船に乗ってディアナ号が牽引される様子を見ていたプチャーチンら30名のロシア人が、襲ってきた暴風雨を避けるために、その荷船で命からがら上陸した(12月2日)ところでもある。プチャーチンらがその日泊まった寺は、おそらくこの日と同じ照江寺。

 プチャーチンは、おそらくこの江ノ浦の照江寺に2度泊まったことになります(12月2日と12月6日)。

 12月7日、朝食を終えて江ノ浦を出立したプチャーチン一行は、木負の満蔵寺で昼食・休憩をとり、古宇より海岸沿いの道を左折、真城(さなぎ)峠を越えて、その日の夕刻に戸田村に到着しました。

 村に入る手前で村役人たちのうやうやしい出迎えを受け、また村の入り口では幕府役人たちの出迎えを受けたことでしょう。また戸田村の人たちは、老若男女、こぞって見物のために沿道に出ていたことでしょう。

 プチャーチン以下の士官たちは、入浜の禅宗のお寺宝泉寺に案内され、そこを宿所とすることになりました。すでに本尊は運び出され、床には清潔な畳が敷かれていました。また各所にいろいろな食料が所狭しと置かれていました。

 他のロシア兵たちには、長屋4棟があてがわれるはずでしたが、まだ完成しておらず、彼らはそれが完成するまで露営をすることになりました。彼らには、もちろん食料や酒、さらにはタバコまで用意されました。

 これら一切の指図を行なったのも、おそらく江川代官であったと思われます。

 その江川代官が、手代とともに韮山から戸田村に到着したのは、プチャーチンらの一行が戸田村に到着したその日。プチャーチン一行を出迎える幕府役人の中には、江川代官の姿があったに違いない。

 その翌日、12月8日には、残るロシア兵第二陣が到着。

 戸田村には、ロシア兵が満ち溢れました。その数470名ほど(鮎川による推定・下田にポシェット以下30名ほどが滞在か)。

 ロシア人たちが戸田村へ入ると同時に、幕府は、怪しい人物が村に入ることと、ロシア人たちが村の外へ出ることを怖れて、村へ通ずる三つの地点(真城峠・戸田峠・小土肥)に仮の関所を設け、また村内6ヶ所に見張番所を設けました(番に当たるのは沼津藩兵)。

 また、プチャーチンからの要望に応えるために、ディアナ号の代替船であるバッティラを造るための造船地として牛ヶ洞を選定。

 さらに、多数のロシア兵や警護兵の食料を確保するために、食料の補給ルートを確保(江戸→〈海路〉→下田→〈海路〉→戸田)。また造船のための資材およびその輸送ルートも確保しました。

 造船御用掛〈かかり〉・造船世話掛を決め、優秀な船大工を各地から集める手配もしなくてはならない。

 これら一切の手配・指図をしたのは、やはり代官江川英龍(その手代たち=韮山代官所)であったはずです。

 伊豆地方の村々を始めとして、韮山代官支配所の村々が、まだ「安政の大地震」の大きな被害から立ち直っていない時に、これらの手配を粗相なく行なっていくことがいかに大変であったか。英龍の激務はいかばかりであったか。

 風邪をひいた英龍が、出府の命により、指図一切を終えて戸田村を出立し韮山に着いたのは12月11日。頭痛が激しく、食欲もない状態での帰着でした。

 韮山で病床に就いていた英龍は、再度の出府督促により12月13日、病を押して韮山を出立。三島を通過して吹雪の箱根峠を越え、15日の夜には江戸本所南割下水の屋敷に到着。高熱のためにただちに病臥。風邪より肺炎を併発していました。

 そして一進一退を繰り返したものの、ついに1月16日の卯の上刻(午前5時頃)、息を引き取りました。その日の江戸は快晴で、それまでの寒気がうそのように緩み、春めいてうららかな1日となりました。

 この英龍の死は、安政の大地震以後、これでもか、これでもか、というほどに押し寄せてきた激務(彼は、彼一級の高度な見地から、それら一切に誠心誠意、誠実に取り組みました)による、「過労死」としか言いようのない(しかし見事な)「死にざま」でした。


○参考文献
・『ヘダ号の建造』(戸田村教育委員会)
・『江川坦庵』仲田正之(吉川弘文館)
・『落日の宴』吉村昭(講談社)



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