鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.5月「吉原宿・三四軒屋浜」取材旅行 その4

2008-05-14 06:01:33 | Weblog
ディアナ号の乗組員たちが上陸したあたりは、もう少し絞っていくとどのあたりになるか。その手掛かりは、富士郡伝法村の伊藤練次郎という者の手記の中の記述にある。この練次郎は、ディアナ号の座礁と沈没、そしてロシア人上陸の情報を耳にして、それを見物に出かけた多くの老若男女の一人であるらしい。「これまで見たことも無き物ばかりなれば、富士郡の老若男女、我身(わがみ)の居所(いどころ)も未(いま)だ定めなきこと〔安政の大地震のため家が倒壊してしまったことによる─鮎川註〕を忘れ、毎日見物に行く、髪も乱れ、着物も着替えず、そのまま〔見物に─鮎川註〕押し出し」たのです。伝法村の練次郎もその大勢の中の一人でした。三軒屋浜に出向いた練次郎が見た光景はどういうものであったか。それは、ロシア人たちが、海へ投げ込んだためにびっしょりと濡れてしまった荷物の中の剣付鉄砲やサーベル、横文字の書類などを「川原」に干している光景でした。また代官江川太郎左衛門が近村に命じて取り寄せた白米を炊き出し、それを馬の飼葉桶のような大きな桶に入れたものを、ロシア人たちがサジですくって食べている光景でした。さらに、一人だけ三軒屋の人家(倒壊していなかったのでしょう)に入っているプチャーチンが、昼夜、剣付鉄砲を持って見回りをしている姿と、ほかの大勢の(400人以上もの)ロシア人たちが、「浜の川原に犬のねる如く」横たわっている光景でした。練次郎は、その光景を見て「実に哀れなる有様なり」と感想を洩らしています。さて、手掛かりは、このロシア兵たちが露営している「浜の川原」であり、濡れた荷物の中身を干していた「川原」です。海岸ではなく「川原」なのです。川の河口部の原っぱで、沈没したディアナ号の多数の乗組員たちは、衣服や荷物を干しながら露営をしていたことになる。この「川」はどこなのか。富士川なのか。それとも別の川なのか。ディアナ号が沈没した頃のこのあたりの地形と、現在の地形とは、当然のことながら大きく変わっているはず。そのことを頭に入れて、彼らが露営した場所を絞ってみたい。富士川以外に、三軒屋浜に流れ込む川が、かつてあったのか、それともなかったのか。それを確認してみるために、富士川河口部から「水神田子の浦港線(県道341)を東方向に歩いてみたのです。 . . . 本文を読む