鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.5月「吉原宿・三四軒屋浜」取材旅行 その1

2008-05-06 04:17:10 | Weblog
連休を利用して、時期的にはいつもより早く、恒例の取材旅行に行ってきました。その報告です。行き先は、富士市の吉原本町(かつての吉原宿)と、同じく富士市の五貫島(ごかんじま)三四軒屋(さんしけんや)。三四軒屋は、かつては宮島村のうちにあり、駿河湾に面した半農半漁の小さな村でした。吉原宿からは南西の方向にあり、西側には富士川の河口が広がっていました。この三四軒屋の西側、三軒屋浜の沖合いに、安政元年(1854年)11月27日(旧暦)の早朝(午前3時30分)、ロシア軍艦ディアナ号が投錨。しかしほどなく座礁して沈み始めたため、29日の早朝から夕方にかけて、ディアナ号の乗員全員(プチャーチン、士官、水兵たち)およそ420名ほどが、波浪のなか上陸したのです。ディアナ号には4基の錨が付いていましたが、1基は小土肥沖で放棄、残る3基はディアナ号沈没(12月2日の夜か)とともに海底に落下。その錨のうち1基は、昭和26年(1951年)8月の大浪によって三四軒屋浜に打ち上げられ、地元漁民により引き揚げられて田子浦忠霊廟の境内に置かれ、もう1基は昭和51年(1976年)8月に田子浦漁協によって引き揚げられました。田子浦忠霊廟の1基は昭和53年(1978年)4月に富士市より戸田村に寄贈されて、郷土資料博物館前に展示され、もう1基の方は「三四軒屋緑道公園」というところに展示されているという。(※1基は、ディアナ号が小土肥沖に碇泊・投錨した際、錨を揚げることが出来ず放棄。昭和6年〔1931年〕5月、潜水夫田中源吉が引き揚げて土肥神社に奉納したものの、昭和17年〔1942年〕に戦時供出されたという)。戸田の郷土資料博物館の錨の方は以前に見たことがありますが、三四軒屋の方は、そこに錨が展示されているということも知りませんでした。ということで、ぜひ現地に行って、その錨と、ロシア人たちが上陸した「駿州富士郡宮島村之内、字三軒屋浜」(江川英龍の川路宛書簡/11月29日附)のあたりを見てみたいと思ったのです。ついでに、富士市立図書館と富士市立博物館にも寄ってみることに。吉原本町と三四軒屋はかなり離れているので、移動を考えて、今回も車(愛車キューブ)を利用することにしました。 . . . 本文を読む