鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.5月「吉原宿・三四軒屋浜」取材旅行 その2

2008-05-11 06:32:04 | Weblog
 その翌朝(万延元年7月24日)、早朝に出立するはずが、オールコック一行はひどい暴風雨のため出立を遅らせました。昼食を宿で摂り、ようやく吉原宿を出立したのは午後2時頃でした。彼らは吉原宿から東海道を右手へそれ、大宮(現在の富士宮・浅間神社)に向かう道、すなわち大宮街道に入ります。宿泊予定先は村山の興法寺(現在の村山浅間神社)。この興法寺から村山口登山道を利用して富士山に登頂する計画だったのです。

 オールコック一行は、7月19日(9/4)に神奈川宿のイギリス領事館(浄瀧寺〔じょうりゅうじ〕)を出立。戸塚(休憩)→藤沢(泊)→小田原(泊)→湯本(休憩)→箱根(泊)→三島(泊)→吉原(泊)と、東海道を西進しました。

 沼津から原を通過して吉原までのどしゃぶりの雨の中の東海道は、「くだける波の大きなうなり声が、一列に立ち並んだマツの木のせまい帯によってやわらげられらて耳に達」するような道筋でした。彼らは、どしゃぶりのためにずぶぬれになってしまったので、昼食と休憩をとる予定になっていた原宿を、「自主的に常軌を逸」して通過。吉原宿に入ってますます風雨は強くなり、夜の10時頃には「恐ろしい強風が滝のような雨をともなって襲来」してきました。

 沼津から原を経て吉原宿の手前まで、東海道の左手(南側)には、駿河湾に沿ってずっと松林が延びています。その浜辺に打ち寄せてくだける波の大きな音が、オールコック一行には、その道中ずっと聴こえていたのです。

 晴れていれば、右手には壮麗な富士山が見えたはずですが、あいにくの豪雨のため視界はきかない。広重の『東海道五拾三次』の「原」や「吉原」に描かれているような道(元吉原から吉原へ向かう道は、松並木がうねうねと続く田んぼ道)を彼らは通行していきました。

 さて、吉原宿の本陣を出立して、オールコックが西洋馬にまたがって大宮へと向かった道ですが、それは「吉原中央駅」というバスのターミナルの北側、斜めに北西へと入る道がありますが、どうもそこであるらしい。東海道は、このターミナル駅の手前で左折して南に向かい、しばらくして右折(西進)します。

 『大君の都』で、オールコックは、「吉原で東海道に別れを告げることになった。富士山へのルートは、ここからわきへそれて、十字路によって大宮と森山〔実は村山─鮎川註〕という二つの小村につうじている」と書いています。おそらくこの辺りで道は十字路になっていて、左折すれば東海道の続き、右折すると大宮・村山方面へ続く道(大宮街道・当時の富士山登山道に通ずる道)であったのです。ここから大宮まではおよそ三里(12km)でした。

 その日(万延元年7月24日)、村山の興法寺に泊まったオールコック一行は、翌25日、台風一過で晴れ渡った青空のもと、境内西側から(村山口)登山道に入って騎馬のまま八幡堂まで登り、そこで馬を下りると、そこからは徒歩で登山道を進みました。その日は粗末な避難小屋に泊まり、その翌日、夜明けとともに小屋を出発。疲労困憊の体(てい)で頂きに着いたのは、小屋を出発して8時間後のことでした。

 富士山登頂を果たしたオールコック一行は、7月28日の朝、大宮の宿所を西洋馬にまたがって出立。雨が降りしきる中、昼前に吉原宿内の東海道に入り、原宿で昼食および休憩。沼津城下を通過して三島に宿泊。その翌日、三島大社前から下田街道に入り、途中、韮山代官江川太郎左衛門(英敏)の「二列に立ち並んだりっぱなマツの木のあいだにあるかれの家にいたる門の前をとおりすぎ」て、美しく豊かな田園風景に驚嘆しつつ、熱海へと向かったのです。


 続く


○参考文献
・『大君の都 幕末日本滞在記(中)』オールコック/山口光朔訳(岩波文庫)


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