鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.5月「吉原宿・三四軒屋浜」取材旅行 その8

2008-05-25 06:48:14 | Weblog
広見公園ふるさと村(富士市立博物館野外展示)は、富士市立博物館の西側の丘陵地帯に広がっています。道しるべや一字一石経王塔などを右手に見てしばらく行くと、樋(とよ)代官植松家の長屋門がありました。江戸時代末期のものであるらしい。安政の大地震の後に再建されたものでしょうか。それともそれ以前からのものでしょうか。この植松家は、飲料水や田畑の灌漑用水を供給する「鷹岡伝法用水」を代々管理してきた家であり、農家の門としてはかなり立派な門に、その格式の高さを伺い知ることができました。

 その長屋門の右脇から階段を登ったところにあるのが旧松永家住宅。加島平垣村の豪農であった松永(安兵衛)家の住宅の一部。やはり幕末の建物で、安政4年(1857年)に建てられたもの。おそらく安政の大地震(安政元年・1854年)によって倒壊し、その後再建されたものと思われます。表門は薬医門。左手にくぐり戸があります。この松永家には旗本領の陣屋が置かれていて、年貢の取りまとめを領主に代わって行なっていたという。

 その旧松永家の左手前には原泉舎(げんせんしゃ)。今泉の妙延寺の土蔵として嘉永元年(1848年)に建てられたもの。安政の大地震でも倒壊しなかったということになります。

 休憩所を左手に見て、さらに上に上がっていくと、樋代官植松家住宅があります。これも江戸末期の建物。面白いのは当時としては珍しい二階建ての建物ということで、しかもその二階の屋根の上に「越屋根」という換気用の屋根があること。したがって三階建てのようにも見える。先ほどの植松家の長屋門も立派でしたが、この母屋(?)もそうとうに立派なものです。

 その住宅に隣接しているのが旧独楽荘石蔵。これは大正9年(1920年)頃、伊藤博文の養子であった伊藤博邦公爵の興津(おきつ)の別荘(独楽荘)に建てられたもの。この興津には、中江兆民と関係の深かった西園寺公望(きんもち)の別荘もありました。

 この石蔵の北側では、ちょうど稲垣家住宅の移築復元工事が行なわれていました。

 植松家住宅の東側にあるのが杉浦医院。木造擬洋風建築物で、大正8年(1919年)に建てられたもの。吉原伝馬町(現富士市中央一丁目)にあったもので、昭和63年(1988年)まで医院として使われていたという。外壁は下見板張りペンキ塗り仕上げ。

 最後に足を向けたのは眺峰(ちょうほう)館。明治25年(1892年)に、吉原西本町(現吉原二丁目)の鈴木義三が、料理店の玄関塔屋として建てたもの。避雷針を持つ3階建八角形の洋風建築でした。この2階部分が奥の料理屋に通じ、左手には江戸楼という建物がありました。この建物の3階からは富士山の眺望がすばらしく、ゆえに「眺峰館」と呼ばれて人々に親しまれたのだという。吉原の名物で、上げ下げのガラス窓、両開きの鎧戸(よろいど)、軒先の瓔珞(ようらく)は、その八角形とんがり屋根の外観とともに、見る人々に「文明開化」を感じさせたことでしょう。

 他の横沢古墳や東平(ひがしだいら)遺跡の高床倉庫・竪穴住居などは時間の関係上割愛して、15:00に市立博物館の駐車場を出発。

 東名には入らず、国道1号線を沼津まで走り、そこから国道246に入りました。道は比較的空いており、帰宅したのは18:00ちょっと過ぎでした。



○参考文献
・「広見公園ふるさと村」パンフレット(富士市立博物館)
ネット
「富士山が泣いている」熊谷智徳(郵政研究所月報)


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